1936(昭和11)年
11月17日、新潟県新井市に警官の父鉄五郎、母常子の三男として誕生。
1943(昭和18)年
新井小学校入学。
1949(昭和24)年
新井中学校入学。この頃より絵画に興味をもつ。
1952(昭和27)年
高田高等学校入学。絵画部に入りデッサンに明け暮れる。
1955(昭和30)年
病気のため大学受験を放棄。
1956(昭和31)年
20歳
早稲田大学文学部美術科に入学。長兄と同じ東中野の下宿に住む。早大在学中の長兄は小さな学生劇団を主宰しており、少なからぬ影響を受けた。早大舞台美術研究会に入る。
1958(昭和33)年
22歳
文学部演劇科に転科。学内で小さな学生劇団を主宰していた兄の影響があった。転科の記念に書いた処女作
「署名人」
を『早稲田演劇』『テアトロ』に投稿。両誌とも入選し、『テアトロ』11月号、『早稲田演劇』第5号に掲載。この作品を通じて倉橋健氏、安部公房氏らと知り合う。
同人雑誌『集』第一号に戯曲「朝に死す」を書く。
1959(昭和34)年
23歳
早稲田大学で講義をもっていた演出家・倉橋健氏の紹介で劇団青俳に戯曲
「明日そこへ花を挿そうよ」
を書き、自作が初めて上演される。蜷川幸雄らが出演。『早稲田演劇』第6号に掲載。
1960(昭和35)年
24歳
早稲田大学文学部演劇科を卒業。
羽仁進のドキュメンタリー「絵をかく子どもたち」を見て映画にひかれ、岩波映画社へ入社、企画脚本家に配属される。同期に田原総一朗、先輩に秋浜悟史、羽仁進、黒木和雄、土本典昭、東陽一、小川紳介がいる。
羽仁監督の「不良少年」に助手としてつく。
劇団青俳で「署名人」上演。安保闘争に岩波労組の一員として参加。
1961(昭和36)年
25歳
羽仁進監督
「充たされた生活」
のシナリオを書く。黒木和雄監督「我が愛・北海道」のコメントを書く。その他「マヨネーズ」「造船」などのPR映画のシナリオを書く。
1962(昭和37)年
26歳
劇団青俳に
「逆光線ゲーム」
を書き、上演。
1963(昭和38)年
27歳
羽仁進監督「彼女と彼」のシナリオを書く。年間代表シナリオに入る。
この間、岩波映画の仕事を通じ、芝居について秋浜悟史氏よりいろいろと影響を受ける。
1964(昭和39)年
28歳
羽仁進監督
「ブアナ・トンの歌」
のシナリオのため、アフリカへ行く。その後、フランス、ギリシア、イスラエルなどをまわる。
1965(昭和40)年
29歳
岩波映画社を退社。フリーになる。黒木和雄氏などとシナリオ数本を執筆するが、資金のメドがたたず。
戯曲
「朝に死す」
を『テアトロ』11月号に掲載。
1966(昭和41)年
30歳
戯曲
「あの日たち」
を書き、劇団青俳にて上演される。
シナリオ「魚群アフリカを行く」を書く。
テレビ・ドキュメンタリーなどで数回、三池炭じん爆発を取材。大牟田市に長期滞在。東京12チャンネルのディレクター田原総一朗氏、作家・内田栄一氏とドキュメンタリー・グループ(ドキュメンタリー5)を結成。
1967(昭和42)年
31歳
戯曲「あの日たち」を『テアトロ』1月号に掲載。
劇団青俳にて
「逆光線ゲーム」
再演。
1968(昭和43)年
32歳
劇団青俳が分裂。
戯曲
「真情あふるる軽薄さ」
を書く。『テアトロ』9月号に掲載。
東宝作品
「北穂高絶勝」
のシナリオを書く。
自主映画
「祇園祭」
のシナリオを鈴木尚之氏と共同執筆。年間代表シナリオに入る。
1969(昭和44)年
33歳
戯曲
「狂人なおもて往生をとぐ」
を書く。『テアトロ』3月号に掲載。俳優座上演。
「真情あふるる軽薄さ」
を現代人劇場にて新宿アートシアターで上演。
1970(昭和45)年
34歳
第一戯曲集
「狂人なおもて往生をとぐ」
を中央公論社より刊行。
戯曲
「あなた自身のためのレッスン」
を書く。『海』6月号に掲載。俳優座上演。
戯曲
「想い出の日本一萬年」
を書く。現代人劇場にて新宿アートシアターで上演。
小島信夫氏と知り合う。
1971(昭和46)年
35歳
戯曲
「鴉よ、おれたちは弾丸を込める」
を書く。『テアトロ』11月号に掲載。現代人劇場にて新宿アートシアターで上演。
戯曲
「いとしいとしのぶーたれ乞食」
を書く。
戯曲「想い出の日本一萬年」「いとしいとしのぶーたれ乞食」を季刊『同時代演劇』第4号に掲載。
第二戯曲集
「想い出の日本一萬年」
を中央公論社より刊行。
ATGと協力して初めて自作・自監督の映画
「あらかじめ失われた恋人たちよ」
を田原総一朗氏と共同で製作。年間代表シナリオに入る。
三一書房刊行の「現代日本戯曲大系」第4巻に
「署名人」
、第7巻に
「真情あふるる軽薄さ」
、第8巻に
「狂人なおもて往生をとぐ」
が収録される。
1972(昭和47)年
36歳
戯曲
「ぼくらは生まれ変わった木の葉のように」
を書く。『辺境』第8号に掲載。
戯曲
「ぼくらが非情の大河をくだる時」
を書く。『テアトロ』11月号に掲載。現代人劇場にて新宿アートシアターで上演。
蜷川幸雄、石橋蓮司、蟹江敬三らと〈櫻社〉を結成。
1973(昭和48)年
37歳
講談社刊行の「現代の文学」第37巻に
「署名人」
「狂人なおもて往生をとぐ」
が収録される。
「泣かないのか?泣かないのか一九七三年のために?」
を書く。櫻社にて新宿アートシアターで上演。
櫻社解散。
1974(昭和49)年
38歳
戯曲
「ぼくらが非情の大河をくだる時」
が第18回岸田戯曲賞受賞。
第三戯曲集
「ぼくらが非情の大河をくだる時」
を新潮社より刊行。
黒木和雄監督作品
「竜馬暗殺」
のシナリオを書く。 第四戯曲集
「あの日たち」
をテアトロ社より刊行。
第一エッセイ・評論集
「われら花の旅団よ、その初戦を失へり」
をレクラム社より刊行。
1975(昭和50)年
39歳
5月、戯曲
「幻に心もそぞろ狂おしのわれら将門」
を書き、新潮社より〈書き下ろし新潮劇場〉として刊行。6月、新グループ〈風屋敷〉にて上演をもくろむも中止。
1976(昭和51)年
40歳
戯曲
「花飾りも帯もない氷山よ」
を『新劇』10月号に掲載。渋谷ジァン・ジァンで上演。
戯曲
「夜よ おれをさけびと逆毛で充す 青春の夜よ」
を書く。山崎努、松本典子、大橋也寸と演劇企画グループ〈木冬社〉を結成。第一回公演として「夜よ…」を上演。第11回紀伊國屋演劇賞個人賞を受賞。
1977(昭和52)年
41歳
戯曲
「夜よ おれをさけびと逆毛で充す 青春の夜よ」
を『群像』1月号に発表。
戯曲
「楽屋―流れ去るものはやがてなつかしき―」
を『新劇』8月号に発表。木冬社第2回公演として渋谷ジァン・ジァンで上演。
第五戯曲集
「夜よおれを叫びと逆毛で充す青春の夜よ」
を講談社より刊行。
1978(昭和53)年
42歳
10月
「幻に心もそぞろ狂おしのわれら将門」
がレクラム舎によって渋谷パルコ敷地内のテント劇場で上演。
12月
「楽屋―流れ去るものはやがてなつかしき―」
が青年座にて上演。
12月、戯曲
「火のようにさみしい姉がいて」
を『群像』11月号に発表。木冬社第3回公演として紀伊國屋ホールで上演。この後いったん木冬社は同人制を廃し、清水邦夫だけが残る。
1979(昭和54)年
43歳
第二評論集
「ほほえみよ、流し目の偽彩よ」
をレクラム社より刊行。
戯曲
「戯曲冒険小説」
を『新劇』8月号に発表。7月文学座アトリエにて上演。芸術選奨演劇部門・新人賞を受賞。
木冬社第4回公演として
「楽屋」
を再演。
斎藤耕一監督作品
「幸福号出航」
(三島由紀夫原作)のシナリオを書く。翌年の年間代表シナリオに入る。
1980(昭和55)年
44歳
戯曲
「わが魂は輝く水なり―源平北越流誌」
を『群像』2月号に発表。劇団民藝にて上演。第六戯曲集として講談社より刊行。第8回泉鏡花賞を受賞。
戯曲「行きずりの人たちよ」を改訂し、
「青春の砂のなんと早く」
を書く。青年座にて上演。
戯曲
「あの、愛の一群たち」
を『新劇』8月号に発表。木冬社第6回公演として紀伊國屋ホールで上演。
この年の一連の演劇活動で、第8回テアトロ演劇賞を受賞。
1981(昭和56)年
45歳
木冬社はアトリエが完成し、本格的に劇団への道を歩み始める。
戯曲
「一九八一/嫉妬」
を『テアトロ』6月号に発表。文学座アトリエにて上演。
ラジオドラマ
「洞爺丸はなぜ沈んだか」
(原作・上前淳一郎)を書き、TBSにて放送。芸術祭優秀賞を受賞。
戯曲
「あらかじめ失われた恋人たちよ―劇篇」
を『テアトロ』10月号に発表。木冬社第7回公演として紀伊國屋ホールで上演。第七戯曲集として講談社より刊行。
渋谷ジァンジァンで「清水邦夫作品連続公演」が行われる。「夜よおれを叫びと逆毛で充す青春の夜よ」「狂人なおもて往生をとぐ」「戯曲冒険小説」「楽屋」の4作品。
1982(昭和57)年
46歳
戯曲
「昨日はもっと美しかった」
を『悲劇喜劇』2月号に発表。木冬社にて上演。
戯曲
「雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた」
を発表。9年ぶりの蜷川幸雄の演出により、日生劇場で上演。
第三評論集
「火のように、水のように」
をレクラム社より刊行。
1983(昭和58)年
47歳
戯曲集
「ぼくらが非情の大河をくだる時」
をレクラム社より刊行。
戯曲
「エレジー―父の夢は舞う」
を発表。劇団民藝にて上演。河出書房新社より刊行。第35回読売文学賞を受賞。
戯曲
「とりあえず、ボレロ」
を発表。木冬社にて紀伊國屋ホールで上演。
1984(昭和59)年
48歳
戯曲
「タンゴ・冬の終わりに」
を発表。蜷川幸雄演出でパルコ劇場にて上演。講談社より戯曲集刊行。
戯曲
「海賊、森を走ればそれは焔……」
を『文芸』8月号に発表。俳優座にて上演。 戯曲
「ラヴレター―愛と火の精神分析」
を発表。木冬社にて紀伊國屋ホールで上演。
1985(昭和60)年
49歳
戯曲
「救いの猫ロリータはいま……」
を『テアトロ』7月号に発表。演劇集団円にて紀伊國屋ホールで上演。
戯曲
「95kgと97kgのあいだ」
を蜷川幸雄演出にてベニサン・ビットで上演。
戯曲
「花のさかりに死んだあの人」
を『テアトロ』11月号に発表。木冬社にて渋谷ジァン・ジァンで上演。
エッセイ集
「月潟村柳書」
を白水社より刊行。
1986(昭和61)年
50歳
戯曲集
「花のさかりに…」
をテアトロより刊行。
戯曲
「薔薇十字軍・渋谷組」
を『新劇』6月号に発表。パルコ=スペースパート3で上演。
戯曲
「NINAGAWA少年少女鼓笛隊による血の婚礼」
が蜷川幸雄演出でベニサン・ビットにて上演。
戯曲
「夢去りて、オルフェ」
を発表。木冬社にて紀伊國屋ホールで上演。
1987(昭和62)年
51歳
戯曲
「なぜか青春時代」
を『新劇』8月号に発表。蜷川幸雄演出でパルコ劇場にて上演。
戯曲集
「幻に心もそぞろ狂おしのわれら将門」
をレクラム社より、戯曲集
「狂人なおもて往生をとぐ―昔、僕達は愛した」
を新水社より刊行。
戯曲
「戯曲推理小説」
を発表。木冬社にてパルコ劇場で上演。
1988(昭和63)年
52歳
戯曲ワイド版
「夢去りて、オルフェ」
をレクラム社より刊行。
1989(平成元)年
53歳
戯曲
「たそがれて、カサブランカ」
を発表。パルコ劇場で上演。
「青春・ロンググッドバイ」を劇化・演出。木冬社Ankhスタジオで上演。
戯曲
「恋愛小説のように」
を発表。木冬社にて紀伊國屋ホールで上演。
戯曲ワイド版
「楽屋―流れさるものはやがてなつかしき―」
をレクラム社より刊行。
1990(平成2)年
54歳
初の小説集
「冬の少年」
を講談社より刊行。
「愛のかたちを探る週末の一幕劇集I」
としてルイ・フィリップ作「帰宅」「アリス」を劇化・演出。木冬社Ankhスタジオで上演。
戯曲
「弟よ」
を発表。木冬社にて紀伊國屋ホールで上演。第41回芸術選奨・演劇部門・文部大臣賞(演出)、第18回テアトロ演劇賞を受賞。
1991(平成3)年
55歳
「愛のかたちを探る週末の一幕劇集II」
としてルイ・フィリップ作「愛のゆくえ」「アマドゥーの娘」「無言」を劇化・演出。木冬社Ankhスタジオで上演。
戯曲
「哄笑―智恵子、ゼームス坂病院にて」
を発表。木冬社にてパルコ=スペースパート3で上演。
1992(平成4)年
56歳
戯曲
「冬の馬」
を『テアトロ』(1993年)1月号に発表。木冬社にてシアターXで上演。
「清水邦夫全仕事」1958~1980
、
1981~1991
全4巻を河出書房新社より刊行。 小説
「華やかな川、因われの心」
を講談社より刊行。第43回芸術選奨文部大臣賞を受賞。
1993(平成5)年
57歳
「愛のかたちを探る週末の一幕劇集III」
を演出。木冬社にてシアターXで上演。
戯曲「血の婚礼」が蜷川幸雄演出で銀座セゾン劇場にて上演(再演)。
小説
「風鳥」
を文芸春秋より刊行。
1994(平成6)年
58歳
多摩美術大学教授に就任
7月、木冬社・シアターX(カイ)提携公演でアゴタ・クリストフ作
「悪童日記」
を劇化・演出。
12月、戯曲
「わが夢にみた青春の友」
を発表。木冬社にて紀伊國屋ホールで上演。
第29回紀伊國屋演劇賞・団体賞を受賞。
エッセイ集
「ステージ・ドアの外はなつかしい迷路」
を早川書房より刊行。
1996(平成8)年
60歳
5月、木冬社・サイスタジオにおける小さな公演VOL.1を劇化・演出。
12月、
「火のようにさみしい姉がいて96」
を木冬社にて紀伊國屋サザンシアターで上演(再演)。
1997(平成9)年
61歳
4月、木冬社・サイスタジオにおける小さな公演VOL.2を演出。
7月、村上龍原作
「昭和歌謡大全集」
を劇化。蜷川幸雄演出で銀座セゾン劇場で上演。
1998(平成10)年
62歳
7月、
「リターン」
を発表。木冬社にてシアター×で上演。
1999(平成11)年
63歳
3月、木冬社にて紀伊国屋サザンシアターで
「エレジー―父の夢は舞う―」
を再演。
4月、木冬社・サイスタジオにおける小さな公演VOL.3「朝に死す」「草の駅」 を上演。
11月、木冬社・サイスタジオにおける小さな公演VOL.4「戯曲冒険小説」「戯曲推理小説」を演出。
2000(平成12)年
64歳
6月、
「恋する人びと―軍都とダンディズム」
を発表。木冬社にて紀伊国屋サザンシアターで上演。
11月、木冬社・サイスタジオにおける小さな公演VOL.5「愛の森―清盛をめぐる女人たち」を演出。
2001(平成13)年
65歳
6月、木冬社にてシアター×で
「女優N―戯曲推理小説」
を上演。劇団木冬社を解散し、演劇企画木冬社のみを存続。これまでも企画作品は「演劇企画木冬社」として活動していたが、清水氏の作品を上演する「劇団木冬社」としての組織は廃止する。
11月、
「破れた魂に侵入―Life Line」
を発表。木冬社・サイスタジオにおける小さな公演VOL.6にて上演。
2002(平成14)年
66歳
紫綬褒章を受章
2003(平成15)年
67歳
8月、
「イエスタデイ」
を木冬社にてシアターXで上演。
2007(平成19)年
71歳
多摩美術大学映像演劇学科教授を退職
2008年(平成20)年
72歳
旭日小綬章を受章
2021(令和3)年
84歳
4月15日 逝去。
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