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われら花の旅団よ、その初戦を失へり
レクラム社 1975 246p 本体価1800円 (清水邦夫演劇的エッセイ評論集 1)
I
某地方巡査と息子にまつわる覚書:p13~27
偽故郷:p28~31
偽故郷論:p32~35
〈犯す〉〈犯される〉関係と一家心中:p36~45
浮浪の思想:p46~60
座りこんでいく人間―尾崎放哉:p61~80
青写真のない抵抗運動:p81~83
ぼくの持たされた鞄:p84~85
歌謡曲と半放浪:p86~89
「テレビ」は放浪を駆逐する:p90~93
豊穣たるイメージ:p94~95
追憶の〈舌切り少女〉たち:p96~97
II
「ことば」の彼方:p101~103
映像と〈ことば〉:p104~106
演劇的言語の陥穽:p107~109
失語症時代:p110~116
奇怪なる時代の戯曲:p117~121
反乱する饒舌の背後:p122~143
街から遁走することば:p144~146
III
劇作家としての安部公房:p149~156
安部戯曲の新しい貌:p157~166
戯曲「モンセラ」の想い出:p167~169
今日僕が“欲望という名の電車”を観る時:p170~172
光ある孤立感を!:p173~177
われらが演劇のなかの〈使われざる部屋〉:p178~180
演劇の野性のありかを求めて:p181~184
ドツキ漫才における奇怪さ:p185~188
正々堂々とした観客層:p189~192
定まらぬ視線の謎:p193~196
演劇批評を批評する:p197~206
ゲームと私:p207~209
真情あふるる軽薄さについての広告:p210~211
IV
ぼくらが非情の大河をくだる時(対談)蜷川幸雄=清水邦夫:p215~228
状況と言葉との出合(対談)蜷川幸雄=清水邦夫:p229~244
*後記:p225~226
【コメント】
初のエッセイ集。エッセイ集というよりは評論集ですね。「早稲田演劇」に寄せた長い論文もあって、軽く読み流すような代物ではありません。しかし後半に入ると少しやさしくなってくれて助かります。
蜷川さんとの対談が二つ最後に加えられています。他にも読んだことはありますが、面白いですねー、二人で喋っているだけで。まだお若いので気負いというか気合いというかが感じられて大変興味深いです。
この中で清水さんが蜷川さんはテキレジをやらない、せりふを演出で変えないけれど、それは何故かと問うています。それに対して蜷川さんは「演出家のマゾヒズム」「作家が苦闘して振り絞って出してきた言葉をいじるまい!と思っている」というような感じで答えています。
「俳優とは自分の生の言葉を舞台の上で語れないという屈折をもっているからこそ逆説的に美しい。演出も制約があるからこそ乗っ取ってやろうとする」要約するとそんな感じです。若い頃から戯曲という作品を受け取る者としてのプライドと力強さ、そして謙虚さを合わせもった演出家なんだなあと、つくづく思いました。
制約を外そうとする力には二つの方向があって、枠を越えようとするものと楽になろうとするものとあると思うんです。一見前者に見えて後者であることも多いでしょう。
私は枠の中にどっぷりおさまったまま安心しているような芝居はもちろんつまらないと感じますが、アドリブの芝居は面白いと思うこともあるけれど、あまり好きではありません。な~んか抜けちゃってるんですよ、悪い意味で、緊張感がないというか…。言葉のバトルなんて聞こえはいいけれど、本当にそういうものは滅多にお目にかかれない。
例えが悪いかもしれないけれど、コンサートなどでジャムセッションとかソロの場面が嫌いです。演奏の間にちょっと織り込んでいるだけならまだしも、1曲丸々やられると冗長さが目立ってしまって…。そんなにワザがあるんなら、そんなに自分の瞬間的な感性に自信があるんなら、もちょっとがっちりやってみてよ、と思います。
お芝居もライブも集団でやることですから偶発的な何かを期待する気持ちはわかりますが、相手によって引き出される自分の何かを期待している甘さも感じます。
制約のない、自由というものの恐ろしさを理解した上でそれと戦っている人もいますから一概には言えませんが、私には蜷川さんの言葉の方がしっくり来ました。
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