幻に心もそぞろ狂おしのわれら将門
1975年の作品
初出:書き下ろし
収録:
「幻に心もそぞろ狂おしのわれら将門」
p3~135 新潮社 1975.5.5
「幻に心もそぞろ狂おしのわれら将門」
p5~104 レクラム社 1987.10.1
「清水邦夫全仕事1958~1980下」
p91~143 河出書房新社 1992.6.20
【上演データ】
1976(昭和51)年5月15日/22日
劇団河公演
会場:旭川市文化会館小ホール/STVホール
演出:清水邦夫
装置:勝浦達也
小道具:吉田美砂/近藤恵理
衣裳:池ノ内仁子
照明:小柳妙子/松永宏
音効:星野由美子
作曲:山本昇一
出演:北門真吾/塔崎健二/ふじきまこと/星野由美子/中津川慎/子森思朗/勝又三郎/他
再演:1978(昭和53)年10月31日~11月3日(10月29,30及び11月4・5日は事故のため中止)
レクラム舎第3回公演
会場:渋谷西武(現パルコ)敷地内テント
演出:赤石武生
美術:濃野壮一
照明:小柳衛
音響:飯田音響
振付:桐山良子
衣裳:鳥居照子
殺陣:平間徹
舞台監督:渡辺登
制作:高橋真三樹
出演:凪杏子(ゆき女)/しみずさゆり/中野元子/山下千景(以上はな女)/岩崎美智子/川平京子/篠塚操(つね女)/北村彰(秩父坊)/高山良一(甲州坊)/直井修(平小次郎将門)/鈴木弘一(豊田郷ノ三郎)/滝沢一成(豊田郷ノ五郎)/羽田えみこ(桔梗の前)/大山清志(髭の武将・捨十)/比知屋昭人(髭の武将・捨十)/酒井徹/渡会良彦(右太)/森沢正益(源左)/丸山弘員/神谷信行/高杉稔(郎党)/海瀬和彦/斉藤衛(藤原勢)
【あらすじ】
藤原秀郷に追われ、追いつめられている平将門一行。すでに味方は10名余りに減っている。逃げ落ちる途中、頭に大けがをした将門は自分が何者であるかを忘れ、こともあろうに自分が将門を狙っている武者であると思い込むという狂気にとり憑かれた。
幼い頃からの将門の親友である三郎と将門の妻・桔梗はその姿に混乱するが、三郎の弟で将門の影武者・五郎はこの機に乗じて自らが将門になろうとする。秀郷の追っ手が来ると三郎は、五郎が本物の将門であるという芝居をして将門自身に五郎を斬らせる。こうやって影武者を使い、秀郷の追求の手を逃れてきた三郎であったが、ついに進退きわまり、最後の大芝居をうつことにする。それは…
【コメント】
櫻社解散から2年、ようやく書いた戯曲で、新潮社の単行本の書き下ろしとして刊行するという気合いの入った作品です。確かに非常に熱のこもった素晴らしい作品ですが、不運につきまとわれた作品でもありました。
当初、新しく結成した〈風屋敷〉という同人制の集団で上演しようとしました。同人制とは劇団のように事務所をもたない、出演ごとに集められる組織で、現代人劇場での経験を基に劇団をもつことを避けようとしたのでしょう。同人制というのは、劇団をもつと劇団を存続させるために芝居を上演するようになり、芝居のために人を募って集団を作る方が良いという考え方に基づいています。現代人劇場の後の櫻社もそうでしたし、木冬社も最初はそうでした。しかし風屋敷の場合、これがものの見事に失敗します。
風屋敷には石橋蓮司、緑魔子、山崎努、松本典子が参加していたようです。稽古中に内部の意見が対立して、公演を中止せざるを得ない状況に追い込まれました。詳細は語られていないためわかりません。ただ、山崎努・松本典子は以後の公演にも出演していますが、石橋蓮司・緑魔子はこれ以後清水作品には出演しておらず、翌76年12月に「第七病棟」を結成しています。
これまで作品を大きな劇団に提供するか、自らが積極的にかかわった場合は蜷川幸雄という強力な演出家がいた作者にとって、初めて自らが演出を手掛けたこの作品で、このような結果になってしまったことが大きな傷を残したに違いないとは思います。
しかし戯曲を読むと、現代人劇場の解散以来、劇作家としての新しい言葉を模索する清水邦夫が、明らかにもがき苦しみながらも切り開きつつある路が見えます。偽将門を次々と殺していきながら、そんなものが将門であるはずがないと叫ぶ平将門。誰からも見捨てられようとしている将門ですが、偽将門を殺し続けることで将門が生きていると更に思いこみ、人々にそう伝えようとする、伝説を作り上げようとする、その悲愴な姿が描かれています。そこに、蘇えろうとするものへの熱い想い、青春との仮借ない決別が見えるようです。
結局、この作品は北海道旭川市のアマチュア劇団「河」によって初演されます。また、
レクラム舎
(当然出版社のレクラム社と関係があると思われますが)という、清水氏と関係の深い劇団によって渋谷ジァンジァンの横の駐車場にテントを立てて、78年に再演されます。その時も出演者の鈴木一功が公演途中で救急車で運ばれるというアクシデントにより4日間で公演中止。どうにも不運な作品です。(「レクラム舎写真館」のページに写真画像あり)
内村直樹様より幻に終わった風屋敷の公演チラシ画像をいただきました。ありがとうございました。
1975年6月20日~7月10日
会場:福田醤油醸造工場(世田谷区祖師谷5-22-6)
演出:清水邦夫/和田史朗/久保克廣
美術:キヤマ晃二
音楽:田山雅充
音響:市来邦比古/吉野勝久/伊東多喜子
照明:吉本昇/白井良直/森かずのり/吉田泰正/鈴木博志/熊倉京子
宣伝美術:磯目雅裕
舞台監督:専修定雄/田村正美/大田原真
制作:飯島岱/戸田宗宏/中嶋稔
出演:浅井要美/安部玉絵/荒川敬/石井〓(にんべんに宣)一/石橋蓮司/稲葉ふゆこ/今井次郎/岩下登/内村直樹/大塚由美子/菊池信吾/小出修二/嬢沙菜恵/竹本博之/田所陽子/つじあきら/堂下繁/中野礼子/南雲貞行/新之加代子/西村克己/野口文淳/松本典子/緑魔子/宮村栄一/山崎努/渡辺修(同人制のため五十音順)
(2004年10月27日)
再演:2005年2月5日~2月28日
Bunkamura シアターコクーン公演(
公式サイト
)
演出:蜷川幸雄
美術:中越司
音楽:笠松泰洋
照明:原田保
衣裳:前田文子
音響:井上正弘
舞台監督:明石伸一
出演:堤真一(平小次郎将門)/木村佳乃(桔梗の前)/段田安則(豊田郷ノ三郎)/中嶋朋子(ゆき女)/高橋洋(豊田郷ノ五郎)/田山涼成(捨十)/山下禎啓(右太)/二反田雅澄(源太)/沢竜二(秩父坊)/甲州坊(冨岡弘)/松下砂稚子(はな女)/五味多恵子(つね女)/土屋美穂子(歩き巫女)/井上夏葉(歩き巫女)/加藤弓美子(歩き巫女)/大友龍三郎(藤原勢の髭の武将)/ほか
【コメント】
2日目(2/6ソワレ)を見ました。板にのせるとやっぱり実感としてじわっと来るものがありますね。この物語は戦い(闘争)からの敗走のお話です。敵に追いつめられて行く中で裏切りあり、仲間内での内ゲバありです。
いかに時代を反映したものなのかがわかるようにヘリの飛ぶ音や拡声器の声がまじった効果音が頻出していました。若い人たちも来ていましたが、わかってもらえたんじゃないでしょうかね。何らかのデモ隊か浅間山荘のときの音でしょうか?
戯曲を読めばわかりますが、実際に見てみて、山崎努がこれ、松本典子がこれ、石橋蓮司がこれ、緑魔子がこれ、という配役を想像してみると納得のいくものがありました。
若い人も結構来ていたので、清水作品の台詞の美しさにうっとりしてくれたら…いいのですが、ついて来られたかなぁ。
舞台としてはどうしても蜷川さんの演出の方に目が行ってしまいがちです。確かに左右まで階段という装置はこれまでなかったようですし、あそこまで急勾配の階段があの高さまである装置はないと思います。しかし、垂直の空間を大きく見せる舞台装置は蜷川さんには結構多いと思います。私自身のデジャブとしては「タンゴ、冬の終わりに」の映画館の客席の勾配。そして上から降りてくるブランコです。また、上から紙吹雪が降る降る。たくさん降ります。水だったときもあります。でも石は初めて見ました。
これは偉大なるワンパターンなんだそうです。最近の演出の本数が多すぎて、私は蜷川ツウではないのでわからなかったのですが、このワンパターンを見て安心する人たちが蜷川演出作品を見に集まるのだそうです。なるほど。
将門(堤)が軽さを表現するという演技プランは、三郎(段田)・桔梗(木村)のみならず、全体として重苦しくなってしまいますのでよくわかるのですが、どうもこれって例えば蟹江敬三が「真情あふるる…」でやっていた「軽薄さ」とは違う気がするのです。ちょっと薄気味の悪い軽さで、それがまた狂気を表現するにはぴったりだろうと思うのですが、どうにもこうにも気分が悪くて仕方がない。おそらく私の既視感「どこかで見た誰かの演技にそっくり」という印象が強く、それもあまり好きではない演技なので、そういう気分になってしまったのでしょう。
他の役者さんだって別に特別ものすごく個性的な、という演技ではありませんが、全員安心して見ることが出来ました。段田安則の安定した芝居らしい芝居も、木村佳乃の凛とした芝居も、中嶋朋子の狂気も、高橋洋の若さのきらめきも、すべて安心できました。ひょっとして、私にとってはそれこそが偉大なるワンパターンなのかもしれません。
だから、この「ざわつき」感が意図して狙ったものだとしたら、蜷川さんの演技プランの術中にはまってしまったということですね。
正直、導入部の山伏たちのお話に全然集中できず、なかなか芝居に入れず苦労しました。これは久しぶりに芝居を見た私自身のせいかもしれません。第一幕は少し登場人物が混乱していましたが、第二幕になると、じっくり見ることができました。三郎=桔梗のシーンは見応えがあって、次の将門=ゆき女のシーンが少しトーンが変わるので、ちょうどいいバランスの組み合わせでこの戯曲が成り立っているのだということを理解することができました。それだけでも収穫だと思いました。
負けの美学というか、敗走の中で「いかに死ぬるか」を考える男たちと、「いかにして生きのびるか」のみを考え、手段を選ばず実行する女の姿が対照的で、やっぱり舞台にのると、印象がすごく変わるのだなと当たり前のことですが、あらためて感じました。
(2005年2月7日)
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