profile

Everything but the girl

1982年~2000年を活動期間とする、トレイシー・ソーンとベン・ワット、男女二人のグループ。メイン・ボーカルは女性の方のトレイシーだが、ベン・ワットの繊細な歌声も魅力。しかしながら、トレイシーの太くて低く、それでいて繊細かつインパクトの強いボーカルが特徴。音づくりは様々な変遷をたどっているが、最初はアコースティックで、ジャズ・ボサノバのエッセンスが強く、フォーク・ロックからホーンセクションの鳴り響く派手な音づくりへ走り、更にアコースティックに戻ったあと、クラブ・シーンで活躍した。
1999年の“Tempalamental”を最後に、ベン・ワットが難病(チャーグ・ストラウス症候群)に倒れたことをきかっけに活動停止となる。
その後ベン・ワットは病気から復帰し、Lazy Dogの開催、Buzzin' Flyというレーベルの運営等でプロデューサー、DJとして成功した。
一方、トレイシーは1998年に双子の女児を、2001年に男児を出産し育児に追われていたが、2007年に“Out of the Woods ”というアルバムを発表し、音楽シーンに復帰した。

トレイシー・ソーン Tracey Thorn

1962年9月26日生まれ。イギリス、Brookman's Park出身。ロンドンに隣接するハートフォード州のハットフィールドで育ち、ハットフィールド・ガール・スクールに通っている時に同級生らとザ・スターン・ポップスという女の子ばかりのグループを結成し、歌い始めた。トレイシーと同級生のジーナとジェーンの3人にジェーンの妹アリスが加わり4人組になった時にバンド名をマリーン・ガールズと改めた。
地元のクラブやパーティなどで演奏しているうちに、エセックスのインディー・レーベル“In Phaze”と契約し、シングル「オン・マイ・マインド」を発表。更にカセット・テープ・アルバム“A Day By The Sea”と“Beach Party”の2本をリリース。Beach Partyの方は1981年に“Wham!”レーベルでレコード化された。また、ナイーブ・レコードのオムニバス・アルバム“Rupert Preaching At A Picture”にも1曲提供している。
こうして活動を続けたマリーン・ガールズだが、途中ジーナが脱退し、トレイシーもハル・ユニヴァーシティに入学したために夏休みだけの活動となってしまった。しかしチェリー・レッド・レコードと契約を交わすことになり、マリーン・ガールズに先駆けトレイシーのソロアルバムを作ることになった。それが「ナッシング・バット・ザ・ガール」という名前だったというのだが、これは本当かどうか…。ともあれ、これが「遠い渚/A Dsitant Shore」という8曲入りミニアルバムとなって1982年に発表される。マリーン・ガールズとしては1983年「けだるい生活/Lazy Ways」を発表した。

ベン・ワット Ben Watt

1962年12月6日生まれ。イギリス、ロンドン出身
ジャズ・ピアニストのトミー・ワットを父親に持ち、幼少の頃から音楽に親しんでいた。ハル・ユニヴァーシティに入学し、チェリーレッド・レーベルと契約して、シングル“Cant”及びミニアルバム“Summer into Winter”を1982年に、アルバム「ノース・マリン・ドライブ」を1983年に発表した。このアルバムは前出の「遠い渚」や「けだるい生活」と共に“New Sensivity”と呼ばれ、フォーク、ジャズ、ボサノバのエッセンスを取り込んだ新感覚のアコースティック・サウンドのポップスとして一部で人気を集め、インディーズ・チャートの上位をキープした。

グループ結成以後

上記のように、二人ともハル・ユニヴァーシティの出身だが、別に大学で知り合ったわけではなさそうだ。偶然同じチェリー・レッド・レーベルと契約しただけらしい。
トレイシーとベンが一緒に演奏することになったのは、チェリーレッドのアイディアで、二人のデュエットレコードを作るためにお互いの音楽的指向を比べ会った結果、ビリー・ホリディの“Night and Day”をA面に、お互いのオリジナル曲をB面に入れたシングルを作ることになった。この曲を聴いてエルビス・コステロは狂喜し、ジャム解散直後のポール・ウェラーはハル・ユニヴァーシティまで来てステージに飛び入りしたほど。更にトレイシーを自身のレスポンド・レーベルに引き入れようとしたが失敗し、代わりにスタイル・カウンシルのファースト・アルバム「カフェ・ブリュ」で1曲自分の曲を歌わせている。
こうしてチェリー・レッドのアイディアで始まったEBTGはパーマネントなグループとして活動を続けることになり、1984年にチェリー・レッドの社長イアン・マクネイとラフ・トレードの社長ジェフ・トラヴィスのジョイント・ベンチャーとしてスタートした新しいレーベル「ブランコ・ネグロ/Branco Y Negro」(発売はWEA)の第一号アーティストとして契約。同年5月にシングル“Each and Everyone”を発表、5月26日付NME紙最高位26位を記録した。6月にはファースト・アルバム“EDEN”をリリース、6月23日付NME紙最高位8位を記録した。
以後現在までに8枚のオリジナル・アルバムを発表している。“Love not Money”、“Baby, the stars shine bright”、“Idlewild”、“The Language Of Life”、“Worldwide”。
1994年の“Amplified Heart”に収録されている“Missing”が大ヒットし、ビルボード2位、UKチャートで3位、ドイツで1位を獲得している。
1995年、長年在籍したBranco Y Negro/WEAを離れ、バージンレコードに移籍し、“Walking Wounded”を発表した。
1999年、“Tempalamental”を発表。活動停止。
2000年、正式に解散をした。

名前の由来

「遠い渚」を作ろうとした時、トレイシーがつけた自分の名前らしい、という説もありますが、二人の通っていた大学の近くにあったお店の名前です。なんでも家具雑貨品を扱っていたらしいですが、今はもうないそうです。
もう一つ、一番カッコよい説があります。
当初はベンが
「Nothing but the girl」何やっても駄目な僕だけど、この娘だけは僕の側に居てくれるんだ という名前を考えていたのを、トレイシーが 「Everything but the girl」何やってもイケてるなオレ様がどうしてもあの女だけはモノになんねぇんだよ!
というのに変えてしまった
カッコいいなぁと思うと同時に「ホントかよー?」って思いました。
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