Luchino Visconti

Filomography

Ossessione

郵便配達は二度ベルを鳴らす[妄執]
Ossessione 制作年1942年/143分
制作国イタリア
監督ルキノ・ヴィスコンティ
原作ジェームズ・ケイン
制作カミッロ・パガーニ
脚本ルキノ・ヴィスコンティ/マリオ・アルカータ/アントニオ・ピエトランジェリ/ジャンニ・プッチーニ/ジュゼッペ・デ・サンティス
撮影アルド・トンティ/ドメニコ・スカラ
音楽ジュゼッペ・ロザーティ
指揮フェルナンド・プレヴィターリ
編集マリオ・セランドレイ
美術ジーノ・フランツィ
衣裳マリア・デ・マッティス
助監督ジュゼッペ・デ・サンティス/アントニオ・ピエトランジェリ
出演マッシモ・ジロッティ(ジーノ・コスタ)/クララ・カラマーイ(ジョヴァンナ・ブラガーナ)/ファン・デ・ランダ(ジュゼッペ・ブラガーナ)/ディーア・クリスティアーニ(アニータ)/エリオ・マルクッツォ(イスパ)/ヴィットリオ・ドゥーモ(トラックの運転手)/ミケーレ・リッカルディーニ(ドン・レミジオ)

■感想

本作は確かに見た記憶がある。先に1981年のラファエルソン監督版、あのジャック・ニコルソンと油ののったジェシカ・ラングの方を見てしまったため、こちらの方はどちらかというと印象は「もっとうまいことやればいいのに…」というもの。つまり「貧困と無知が産み出した悲劇」であると。カラーだったせいか、どうしても81年版の方がシャープに感じられた。

あらためて見ると、本当にていねいな演出だなぁと感心させられる。2時間20分の長いバージョンだったせいもあるのだろうが、じっくりと見せる内容になっている。

この映画が「イタリア・ネオレアリスモ」の先駆だったことは映画史的に重要なことだとは思うが、戦前のイタリア映画など見たことがないため、私にはピンと来ない。それより、“男女の情愛から来る確執・憎悪・転落”等は後のイタリア映画、特にベルトリッチあたりの雰囲気が満載。

ジャック・ニコルソンが悪人ヅラだったせいか、ジロッティの方が女に絡め取られて身動き出来なくなってかわいそうの度合いを強く感じた。裁判の場面がないせいもあるな。あれがあるとこの二人が愛し合っていたなんて、ウソっぽい、という感じがあるから。この映画だと、確かに情愛の方が先に走るけれど、二人の愛にウソはないと感じられ、それが一層悲劇性が高く見える要因になっている。愛は美しいというような意味ではなく、打算より欲望の方が強く、その欲望に捕らわれて盲目になっているという意味で。原題の"Ossessione"の意味は「妄執」。「妄想に執着する」とはすごい言葉だ。

演出のポイントになったのは、二人の出逢いのシーンと、直接言葉では言わないものの、ジョヴァンナがジーノに夫殺しを依頼するシーン。二人の出逢いのシーンで、ジョバンナがジーンに言う。「馬のような肩ね」。これがまた明らかに情欲に捕らわれた目をするジョバンナ。実際、いくら肉体労働者である機械工とは言え、放浪している身分でそんなに大量に食べているとも思えないのに、その肉体はなんだ?というマッシモ・ジロッティの身体つき。クララ・カラマーイの細い身体が対照的だ。そして、殺意を本気で感じたらこうなるのか、殺人を依頼するシーンではジョバンナの目の色が本当に光ったように見える。これが怖い。

ジーノにとっては旅=自由、女=束縛であり、一度は自由を取り戻したが、結局逃れられずぐずぐずしていたら、運命に追いつかれてしまい夫殺しをすることになる。この後、良心の呵責に耐えられず店を手伝うことができない。ジョバンナの望みはまず、今の生活を続けること。でも今の夫はイヤでジーノが良い、という順番。そのため店を売るという選択肢は実は最初っからない。生命保険が出ようが出まいが関係がない。女にとっては「旅」という選択肢はない。だが、よそへ移って店をやるという選択肢ならあるのになぁと。事件後のジーノの様子を見ていれば最初っからそうすればよかったのに…というあたりが「無知による悲劇」なんだが。

殺人後も旅か安定かで悩むジーノを再び誘いに来る「スペイン人」。この人物は原作になく、ヴィスコンティの創作だそうだが、ジーノにとって旅=自由の象徴といえるだろう。が、実際はどう考えても怪しい。わざわざ密告する人物を最初に事故を発見したトラック運転手の他に作る必要性はなく、明らかに同性愛的な演出で登場させているのだ。いくらお金がないからと言って、男二人が同じベッドに寝るかね…マッチを擦ってジーノが寝たことを確認するあたりが、すごく怪しい。後のヴィスコンティらしさが出ている。

それに対し、ちょっと浮いた登場人物である踊り子の方はジーノの苦しみを一度は浄化させ、更に逃亡を助けるという役割を担っていて、存在として価値が高い。そして最後に登場する下働きの少女。彼女に「オレは悪人か?」と尋ねるジーノが哀しい。結局は「自分が悪人である」という罪の意識から最後まで逃れられないのだ。しかし、女の方は悪いという意識は最後までもてず、子供を産む夢を見るのだから、恐ろしい。

途中、舞台がフェッラーラに移る。私が知っているフェッラーラはミケランジェロ・アントニオーニの「愛のめぐりあい」だけだが、比較的最近見たばかりなのでなんとなく親近感がある。

なおこの映画、郵便配達は出ない。原作にも出てこない。事故が二度起こるあたりで何となくわかったが、JMケインの原作小説の文庫本のあとがきによると、以下の通りである。

アメリカでは郵便配達はいつも玄関のベルを二度鳴らすしきたりになっている。つまり来客ではないという便法である。それに郵便配達は長年の知識でどこの何番地の誰が住んでいるかをちゃんと知っているから、居留守を使うわけにはいかない。二度目のベルは決定的な報を意味する。
それと同じようにこの小説では事件が必ず二度起こる。パパキダス殺しは二度目で成功する。法廷の争いも二度ある。自動車事故も二度、フランクも一度去ってまた帰る。そしていつも二度目の事件が決定打となるのである。
この題名はこの本が献げられた脚本家ヴィンセント・ロウレンスの示唆によるものだそうである。
(2005.1.24)

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