Luchino Visconti

Filomography

L'Innocente

イノセント
イノセント
原題L'Innocente
制作年1976年/129分
制作国イタリア/フランス
監督ルキノ・ヴィスコンティ
製作ジョヴァンニ・ベルトルッチ
原作ガブリエレ・ダヌンツィオ「罪なき者」
脚本ルキノ・ヴィスコンティ/エンリコ・メディオーリ/スーゾ・チェッキ・ダミーコ
撮影パスクァリーノ・デ・サンティス
音楽フランコ・マンニーノ
美術マリオ・ガルブリア
衣装ヒエロ・トージ
編集ルッジェーロ・マストロヤンニ
助監督アルビーノ・コッコ
出演ジャンカルロ・ジャンニーニ(トゥリオ・エルミル)/ラウラ・アントネッリ(ジュリアーナ)/ジェニファー・オニール(テレーザ・ラッフォ伯爵夫人)/マッシモ・ジロッティ(ステファノ・エガーノ伯爵)/ディディエ・オードパン(フェデリコ・エルミル)/マルク・ポレル(フィリッポ・ダルボリオ)/リーナ・モレッリ(トゥリオの母親)/マリー・デュボア(公爵夫人)
日本公開1979年3月31日

■内容

19世紀末のローマ。貴族のトゥリオは愛人の伯爵夫人テレーザとの情事を楽しんでいた。貞淑で従順な妻ジュリアーナは夫の浮気に苦しんでいた。トゥリオが愛人とフィレンツェに旅行に行っている間に、トゥリオの弟はジュリアーナに友人で売れっ子の作家ダルボリオを紹介する。二人の間に惹かれるものがあった。

トゥリオは恋敵のエガーノ伯爵との間に決闘騒ぎを起こし、ローマに戻って来た。するとジュリアーナの様子が変わっていることに気付く…。

■感想

ヴィスコンティの遺作。世紀末の貴族の頽廃ぶりを描いたデカダンな作品で、一族郎党を出演させている。左半身不随の上、最後は酸素吸入器をつけて車椅子からの演出となり、おそらく思い描いた通りには出来なかったのだろうけれど、それでも最後を予感しながら、必死の思いで作ったに違いない。豪華で官能的な映画となった。最後も貴族の映画で、しかもこんなに豪華でありがたいなと思う。

冒頭、サロンでの音楽会のシーン。セットも部屋の小道具も衣装も、すべてが美しく豪華だ。衣装は赤を基調としているが、同じ赤でもジュリアーナの紫がかった赤とテレーザの原色輝く赤とでは違う印象を与える。そして二度目のサロンのシーンでは侯爵夫人とテレーザは黒を着ている。その対比がとてもあでやかだ。そして本物の貴族が出ている、映画の中では唯一のモブシーンで、じっくりと、その美しさを堪能する。

また、リラの別荘でのシーン、陽光輝くイタリアの明るい別荘地らしく、とても美しい。アップの多様が目に付くが、トゥリオとジュリアーナの間にある緊迫感が伝わって来るようだ。弟の軍人の青いマントもカッコイイ。「夏の嵐」の白いマントほどではないが、時期的にはもう少し後のイタリア軍になるのだろう。それに、「イノセント」と言えば、パっと思い浮かぶシーンは何故かいつもフェンシングなんである。この白もまた記憶に強烈に残る。

アラン・ドロンとロミー・シュナイダーで見たかったなとやはり思ってしまう。でもラウラ・アントネッリはなかなか。1970年代イタリアのセックスシンボルだそうだが、一見従順で貞節な妻、でも脱ぐと凄いんですという女優なんだと納得した。それにつけても、マッシモ・ジロッティが老けちゃって…処女作と遺作に出たのだから、当然なのだが。

トゥリオは貴族で金持ち、名誉も地位もあり、教養もあり、美男子で、当然女性にもてて、このスカシた野郎は…ニーチェの“善悪の彼岸を越えている”かのような超人だそうだ。頭良い、顔が良い、エゴイストの三位一体である。こういうのをイイ男というのだが、実際は妻に甘ったれて愛人を忘れたいと嘆く単なるダメ男くんである。「キミは妹だ」なんて言われて、喜ぶ女がいると思っているあたりが、頭悪過ぎなんである。

逃げられたら追いかけようとする、テレーザに対してもジュリアーナに対してもリアクションが同じである。どうしてそうなんだろう。テレーザの言うとおり、「持ち上げたり、下げたり。どうして地上を一緒に歩こうとしない」んだろう。

私にはジュリアーナがよくわからない。遊びで浮気されても貴族にはよくあることだからと耐えているのはいいのだけど、夫が本気になったら寂しくてしょうがない。だからタイミングよくダルボリオが言い寄って来たから浮気するのはわかる。わからないのは、妊娠したとわかったとたん、罪の意識におののいて逃げ出すところだ。彼女はダルボリオと駆け落ちするか、慌ててつじつま合わせに夫に言い寄って夫にも自分の子供と思わせるか、二者択一しかなかった筈だ。両方とも出来なかったのは貞淑な妻だから、という設定なのだが、これがよくわからない。

彼女にとってはダルボリオはやはり単なる浮気だったのだろうか。それとも本気だったのだろうか?トゥリオに対して子供を嫌っているように見せたのは芝居だなということはよくわかる演出になっているが、では夫とヨリを戻そうとしたのも芝居だったのだろうか。そういうふうには演出されていない。ちょっとその辺がヴィスコンティにしては浅い演出だなと思う。ここのところを彼女の芝居らしくしてくれた方が筋が通る。

ダルボリオとは単なる浮気なら、子供をトゥリオの子供として育てた方が子供のためになるのだから、彼女が夫とヨリを戻そうとするのはわかる。だが、トゥリオが子供を殺したいと思うほど狭量でダメ男くんだとは思わなかったという計算違いは仕方ないのか?彼は強烈なエゴイストでナルシストなんだから、そもそも自分の子供だって本当に愛せるかどうかもわからないタイプなのに、他人の子供なんか受けいれられるわけないじゃん。ってどうしてわからないかなぁ。子供を守るためなら、そこまで頭回さないと。生んだくせにちゃんと子供守ってやれなかったところがジュリアーナの罪。ダルボリオとの浮気が罪なのではない。

ラスト、トゥリオは自ら幕を引くわけだが、ここは原作とは違うそうだ。ヴィスコンティ自ら「この人物はこれが正しい。この方が人々に受け入れられる」と言っている。それは映画として大衆に受け入れられやすいものにしなくては、などと考えているわけではなく、現代的な解釈としては、こういう超人は結局収容所を作るわけだから、それは存在として失われていくのが当然だという意味だ。映画のラストで彼が自殺すると、私はホッとしたし、これ以外の結末はないだろうと思えた。だが、この死はトゥリオにとってどんな意味があるのだろう。嬰児殺しの罪の意識からでは、むろんない。敗北感からだろうか。

彼は何に敗北したのだろう?ダルボリオにだろうか?それはそうだろう。彼は死んで、決して勝てない。妻は彼を愛し続けると言って尼寺に入ってしまうし。フェンシングでも何でも負けたことのない彼からすると許し難い現実なのだろう。

だが、私は不思議に思う。一度は妻に対して子供を産むことを許したくせに、何故彼は殺そうと思ったのだろう。それは夜中に赤ん坊を見に行く理由を妻に説明する場面で現している「君が幸せそうな、その秘密を探りに行くのだ」と。つまり、子供が生まれて嬉しい、幸せだ、という気持ちに自分がなりたいという意思表示だと私は思った。妻の不義の子を認めるという寛大なところを見せたのだから、彼も最後までそれを貫き通したかったのだが、自分で思っているより遙かに情けない男だということを知らなかったようだ。自分の肥大した自画像と実際の自分自身のギャップ。誇り高い彼には許せなかったのかもしれない。だから自殺した。私にはそう思える。

いずれにせよ、彼は解放してもらったのだ。ルキーノ・ヴィスコンティの手によって。

ヴィスコンティが映画監督でよかった。舞台は同時代に生きていないと見られないが、映画はこうやって後からでも見ることができる。

(2005.3.31)

このページのトップに戻る