Luchino Visconti

Filomography

La Caduta Degli Dei

地獄に堕ちた勇者ども
La Caduta Deghi Dei
原題La Caduta Degli Dei(英:The Damned)
制作年1969年/157分
制作国イタリア/西ドイツ/スイス
監督ルキノ・ヴィスコンティ
製作アルフレッド・レヴィ
脚本ニコラ・バダルッコ/エンリコ・メディオーリ/ルキノ・ヴィスコンティ
撮影アルマンド・ナンヌッツィ/バスクァーレ・デ・サンティス
音楽モーリス・ジャール
美術バスクァーレ・ロマーノ

衣装ピエロ・トージ/ヴェラ・マルツォ
編集ルッジェーロ・マストロヤンニ
助監督アルビーノ・コッコ/ファニー・ヴェスリンク
出演ダーク・ボガード(フリードリッヒ)/イングリッド・チューリン(ゾフィー)/ヘルムート・バーガー(マルティン)/ウンベルト・オルシーニ(ヘルベルト)/シャーロット・ランプリング(エリザベート)/ルネ・コルデホフ(コンスタンチン)/ヘルムート・グリーム(アッシェンバッハ)/ルノー・ヴェルレー(ギュンター)/フロリンダ・ボルカン(オルガ)
日本公開1970年4月11日

■内容

「国会議事堂炎上の夜」1933年2月27日、ルール地方の鉄鋼王エッセンベック男爵の邸に男爵の誕生祝いのため、一族が集まってくる。甥のコンスタンチンとその息子ギュンター、姪の娘エリザベートとその夫ヘルベルト、男爵の息子の未亡人ゾフィーと孫のマルティン。重役のフリードリヒと男爵のいとこになるアッシェンバッハ。子供たちによる出し物の最中、「国会議事堂が炎上している」との報が入る。次に食事の際、自由主義者ヘルベルトを廃し、突撃隊員であるコンスタンチンを副社長にすると発表する。ところが、男爵はフリードリヒに殺され、ゲシュタポがタイミングよく現れ、ヘルベルトを逮捕しようとする。ヘルベルトは殺人の罪を着せられ逃げる。コンスタンチンはこれで自分が社長だと思うが、筆頭株主となった男爵の唯一の直系であるマルティンを抱き込んだフリードリヒが社長の座につく。この陰謀劇は第一幕に過ぎなかった。この後ヘルベルトの逆襲が始まるが…。

■感想

ドイツ三部作の第一作目。原題はイタリア語で「神々の黄昏」。「ルードヴィッヒ」に日本でつけられていたサブタイトルである。英語では"damn"されたものだから「地獄に堕ちた者」になる。これの邦訳を使ったようである。気になるのが、どうして主な主人公たちが英語で話しているのか、という点である。アメリカ市場を念頭においているという理由はあったのだろうけが、「山猫」のときのようにアメリカ資本が入っているわけではない。製作国はイタリア/西独/スイスで、イタリアの政府が作った映画製作及び配給会社イタルノレッジョ社がメインのようだ。ここの財政状況があまりよくなくて支払いが滞ったため、ロケ中にホテルに金を払うまで返さない、と部屋に閉じこめられたこともあったようだ。様々な国の俳優が入っているが故に英語でしか統一できなかったのか。いずれにせよ、群衆部分というか「長いナイフの夜」のシーンはほとんどドイツ語なのだから、出来れば全編ドイツ語でお願いしたかった。ドイツでナチ映画が作りづらいため、英語のナチ映画は多いのだが、全然雰囲気が出ない。ナチはドイツ語じゃないと様にならないのだ。

中学生の時に家で「第三帝国の興亡」(ウィリアム・シャイラー著、東京創元社刊、1961年)という5巻本を見つけて少し読んでみた。さすがによくわからないところも多かったので、大学生のときにもう一度読み直した。後から知ったが、この「第三帝国の興亡」はベストセラーだったそうで、この映画を作るときにもバイブルのように扱っていたそうだ。私にとっては“ナチズム”はこの「第三帝国の興亡」とブレヒトがベースである。

スペクタクルで暴力とエロティシズムに満ちた豪華な娯楽大作だと思う。「若い人にナチズムを知って欲しかった」という投獄体験もある筋金入りの反ファシスト、ヴィスコンティの願いは通じたのだろうか。黒い制服のSS(ナチ親衛隊)は茶色い制服のSA(突撃隊)との対比でいっそう不気味だが、見る人が見ればカッコいいと思ってしまうのではないだろうか。軍人もやったことのあるヴィスコンティはそもそも制服フェチだからな…

映画は背徳に次ぐ背徳。陰謀に次ぐ陰謀である。適当に名前をつけて分割すると、「国会議事堂炎上の夜」「若き男爵の密やかな楽しみ」「長いナイフの夜」「母親殺し」のだいたい四幕となるが、最初と最後がずっと屋敷の中なので、閉塞感がある。2幕目と3幕目はロケだが、室内の場面が多い。まずは「国会議事堂の夜」でフリードリヒが勝つ。この陰謀の後、逆襲に出ようとするヘルベルトだが、逆に第三幕「長いナイフの夜」で虐殺される。第四幕はフリードリヒの凋落で終わる。すべてを裏で仕切っているのがアッシェンバッハで、最後は家の中はナチ一色になっている。本来の当主が継いだのだが、マルティンはアッシェンバッハのいいなりなので、一家は実質的に壊滅したことになる。

映画の一番の見どころは「長いナイフの夜」のシーンである。「レーム事件」は1934年6月30日早朝に起きた。歴史的事項を説明すると長くなるが、簡単に言うと、この頃ヒトラーは国内を掌握した後で、海外との戦争のため正規軍が必要となってくる。これに対して邪魔なのが、ヒトラーを権力の座につかせた突撃隊(SA)である。で、粛正される憂き目にあうのだが、この準備のためヒトラーはSAの幹部に1ヶ月の休暇を与えた。彼らは南ドイツ、バイエルン地方のテーゲルン湖Tegernseeの湖畔にある温泉地“Bad Wiessee(バート・ヴィースゼー)”の複数のホテルに分宿した。ここで休暇を楽しんでいたところをヒトラー自らSSを指揮して急襲して虐殺。レームは自決を拒んだため逮捕され、収容所で殺されたという事件。ヴィスコンティはこのらんちき騒ぎを克明に描く。男ばかりのところにご婦人が少ないと言って女装を始めたのがきっかけだという。それにしてもSAは幕僚長(レーム)がゲイだからって、みんなゲイにしなくてもいいのに、思いっきりみーんなゲイなんである。親父どもが酔っぱらって部屋に帰ると、若い美青年が裸で待っているのだ。これが「地獄に墜ちた勇者ども」のイメージにがっちりはまってしまっており、これがデカダンじゃなくてなんだというのだろう。

この映画の主役はダーク・ボガートである。オランダ系の英国人であるボガートをヴィスコンティ自身が指名したようで、次作の主役もボガートである。ヴィスコンティは彼を非常に気に入ったのだが、私にはどうにもよくわからない。最初から最後までアッシェンバッハに操られるとても情けない役で、この役に合っているとは思う。が、彼はゲルマンらしさがなさ過ぎる。これは次の作品でもそう思った。イングリット・チューリンはベルイマンで見たときはちゃんとスウェーデン人なのに、ここではどこからどう見てもゲルマン女。ヘルムート・バーガーはオーストラリア人だし、グリームはもちろんドイツ人。シャーロット・ランプリングは英国人っぽいところがあるが、フランス人だと言われればそんな気にもさせられる国際派女優なので良いとして。ダーク・ボガートはどう見ても「アングロ・サクソン」なので、この中で一番違和感がある。あまり存在感もなく、「長いナイフの夜」の最後で別に出てこなくてもいいのではないかと思うくらいどうでもい存在になってしまう。

そもそも主役よりヘルムート・バーガーの方が出番が多い。マルティンはロリでマザーファッカーで、もうどうしようもない変態で、彼を使っての陰謀が右に左にと展開するというピエロ的な役割の筈だが、存在感が圧倒的なので、本当の主演はこっちじゃないかと思わせてしまう。マルティンの登場シーンは女装姿である。それが「嘆きの天使」のローラなんである。好きな映画だったから、このシーンにはげっそりしてしまう。マレーネの足は本当に美しいというのに…。まだ若く、かけだしの役者だったバーガーはこの役で大抜擢される。この後うまい役者にはならないが、ゲイっぽい歩き方なんかは非常に上手で、なんだか妖しい雰囲気を醸し出している。この妖しい雰囲気はヴィスコンティが作り上げたのだろうか、それともバーガーを得たからマルティンはこんなに出ずっぱりになってしまったのだろうか。

このヘルムート・バーガーの存在感に匹敵するのがイングリット・チューリンで、母子の戦いは壮絶を極める。私が気になるのは、エリザベート対ゾフィーのシーンである。「あなたのドイツは再び戻ってこない」「出て行ってもこの流れはヨーロッパ中に及んでいく」という言葉は、その通りなんだが、エリザベートのドイツとは、ワイマール共和国初期のドイツなんだろうか?何故ゾフィーは過去のドイツを憎んでいるのだろうか。最初にフリードリヒが言うように、彼女もそれなりの家の出なんだろうに。「私を見ていると不愉快だろう」とエリザベートも言うのだが、ゾフィーは何がそんなに不愉快だったのか。

ゾフィーは鉄鋼王の長男に嫁ぎ男爵夫人となったが、第一次世界大戦で夫を亡くして英雄の未亡人となった。直系の孫の母親として一族の中ではそれなりにていねいに扱われているが、実権は老男爵が握っている。本来なら社長夫人として一族を仕切っていたであろうに。この欲求不満が爆発して重役のフリードリヒと懇ろになり、ナチのアッシェンバッハにすりよることになったのだろうか。

息子との関係はどうだったのだろう。「Martin tot Mutter」なんて書かれるのだから、小さいときから愛情をそそいではいなかったのだろう。弱みを握って自分の権力掌握のための道具としてしか使っていない。いいように使えるなんて、息子にすることではない。結局この母親は息子を支配することしか考えていない。彼女は元々非常に強い支配欲、権力欲に毒された人物で、まさに化け物だと思えば良い、ということか。そう思えば息子の異常さも理解できる。ヴィスコンティ自身が言うように、引用したのはニーチェやワグナーよりフロイトである。

ラストシーン、ゾフィーの化粧はどう見ても死装束である。このシーンを見て思い出したのは、ヒトラーとエヴァ・ブラウンの結婚式だ。当然意識しているんだろう。ヒトラーは結婚式をあげてから自決する。

ヴィスコンティの描くナチの制服を見て触発されたのか、この4年後には「愛の嵐」が製作された。あれもダーク・ボガートなんである(だからゲルマンっぽさがないってばよ)。シャーロット・ランブリングは「地獄に堕ちた…」ではちょい役だったが、「愛の嵐」ではすさまじい。ヘルムート・バーガーの制服姿とシャーロット・ランプリングの制服姿。どちらも妖しすぎだ。

(2005.3.12)

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