フリオ・コルタサルの「石蹴り遊び」は冒頭から読む方法と別の作者の指示に従って読む方法と二通りあるが、冒頭から読んでもちゃんと読めるし、別の方法で読んでも、それはまた別の楽しみ方がある。文庫本の2分冊で読むと、行ったり来たりで忙しいのが難点だが。
比較するのもどうかと思うが、この作品も1ページか2ページ、長くて5ページくらいの断章が時系列に従わずに並んでいる。では、冒頭から読んですんなり楽しめるかというと、この作品の場合疑問だ。
では、時系列に読んでみてはどうか?実際に本を裁断し、スキャンしてPDFを全部時系列に入れ替えた。すると、日付が同じでも、ページの昇順でない場合もあった。そうやって慎重に組み直して読むと、二人の気持ちが徐々に近づき、第三者の介入、ちょっとした暴力の後にすっと溶け合う割合正統派なBL作品であることがわかる。
その後再び掲載順で読んでみると、なるほど、ようやくこの段階で作品に味わいが出てくる。内容を理解しなくては、というプレッシャーから離れて、シークエンスとシークエンスの間に何が起こったか、どのシーンが入るのかを考えたり想像したりしながら、楽しみつつ読み進めることが出来る。
よしながふみが「西洋骨董洋菓子店」で言っていたが、「出会って15分でセックスして、あとの一時間45分ずっと喧嘩しているフランス映画みたいな...」。そう。まるでそんなフランス映画のようだ。喧嘩しているわけではないけれど、ひとつひとつのカットを時系列を無視して次々とつなぎ合わせている映画を時折見かけるので、そう感じたのだろう。
最初からこの時系列に並べて出版したら、それはおもしろくはない。だが、簡単には味わえない作品ではある。一苦労すると良いと思う。ちょっと読者を試すような、挑むような、そんな作品だ。
ところで、安城と峰が知り合うきっかけになった「先生」なのだが、この人が「峰君は私の研究室にいた」というのだから、当然学部か大学院の研究室で、先生は研究者なのだろう。一方、安城と「先生」も知り合いで、こちらの方が古い付き合いのようだ。先生は「私はきみの先生じゃありませんよ。」と安城に言ってるので、彼らの集まりは研究者仲間ではないらしい。では、どんな集まりなのだろうか?安城が西東京出身とのことで、同郷といったようには見えない。「バスおたくの集まり?」などとも思ったが、趣味の集まりなのだろうか?実際は何なのだろう?職業の違う二人が付き合うのを見たいのはわかるのだが、二人が出会う必然性をわかりやすく見せてもらったという気がしなくて、なんとなくここにひっかかりを感じる。
マザーグーズより、「男の子は何で出来てるの?」(What are little boys made of)と谷川俊太郎の「黄金の魚」が引用されている。タイトルは"snips and snails and puppy dog tails"をちょっと省略していて、「ぼろ切れやかたつむり、犬のしっぽ」とかそんなもので出来ているの意味。ぼろ切れがFrogs(かえる)の場合もある。