幻冬舎 2009.8 ISBN978-4-344-01714-6
自分が最優先の母親って、よく考えてみたら、そう悪くはないと思う。
同名の映画のために描き下ろした作品。映画の方はいろいろとカットされているので、こちらの方がわかりやすいと思う。映画を観、原作を読み、久しぶりに再び映画を観た。
この物語に登場する母親は子供を自分の母親(子供にとっては祖母)に預け、タイで働いている。大学の卒業旅行で母親に会いに来た娘が母に対して自分の気持ちをぶつける。「お母さんは自分勝手だ。自分はお母さんと一緒に暮らしたかった」と。母親は意外そうな顔で「そうだったの」と言う。
母と娘はまったく会ってなかったという感じでもないし、仕送り等はしていたのだと思われる。このシーンから察するに、娘はたまに会う母に、淋しいとかどうして一緒にいられないの?とか聞いたことはない。母親の方はその様子を見て安心して離れていたのだろう。「あなたを知っているから、ぐれるとかはあり得ないと思っていた。」という言葉は間違ってはいないが、しかし、娘の気持ちを全部わかっていたわけではなかったということになる。
おそらくは娘の方は母が自分勝手ではあるものの、働いているのが自分のためでもあるということは理解していたし、祖母との暮らしは自分の中では重要な生活要素となっていて、母親と一緒に暮らすために追いかけていこうとしなかったのが自分の意志であるということも理解している。母親の「そのとき、そのときの気持ちに正直に生きてきた。大人も子供もそうすべきだ。」という言葉に対して、娘は「子供はそうはいかない」と反発する。確かに、子供が本当に親を必要とするのは0~10歳くらいまでだから、一番必要なときに自分では選択肢がないとも言える。だが、女の子なら10歳を過ぎることにはもう自分の生活の方が大事で、母親なんかは二の次だ。だから説得力があるとも言えるし、ないとも言える。
母親は娘を捨てたつもりはまったくない。離れて暮らしているだけだと思っている。おそらく母親の方は自分と一緒に暮らすより祖母と暮らす方が娘にとって良いだろうと判断している。それは自分の都合が良いからという言い方もできるだろうが、本当にそう確信しているのだろう。だから娘の前で堂々としていられるのだ。少しも卑屈なところがなく、申し訳ないという気持ちもない。
最近たまたまオノナツメ「リストランテ・パラディーゾ」、近藤ようこ「あけがたルージュ」を読んだ。桜沢エリカ「プール」の3作品と共通しているのは、彼女らが娘を自分の母親に預けて離れて暮らすシングルマザーだという点。そして、娘たちはみな一様に良い子である点。母親を恨む気持ちはあれど、母親のことも理解している。そしてぐれたりはしていない。
母親たちはおそらく一様に若くして子供を産み、夫はいない。自らの手で育てるよりもまずは経済的な面を優先せざるを得なかった。現実的に自分と一緒に暮らしても、他人の手に育児は預けざるを得ない状況でもあった。他人の手にゆだねるのなら、愛情深い自分の母親にゆだねた方が良いという判断を下している。それは娘のために、娘と一緒に暮らすことが出来ないという自分に対してのデメリットを受け入れているとも言えるだろうし、前述したように、自分にとって都合が良いという面もある。
彼女たちは皆自分の人生を生き始めたほんの鳥羽口での出産だろう。子供より自分を優先したい思いも当然あった。そういった事情や母親の気持ちを娘達は皆、納得はしていないものの、心の底では理解はしている。
これが男の子だと話が違い、一気に「はみだしっ子」の世界へ突入する。グレアムは後に会った母親から捨てたわけではなかったと聞かされても素直に受け入れることはできず、アンジーも早い段階で和解を試みた母親を拒絶している。幼い頃の傷はそう簡単にはいやせない。彼等の場合は悲惨と言える点もあり、簡単に比較はできない。だが、一般的に男の子は母親に自分より優先するものがあることを許さないし、そのことで傷つき、根に持つのだ。一緒にいたら、14~15歳には「ババア」と呼んで、いないものとして扱うようになるくせに、だ。
それでもこれはフィクションの世界だからこうやって淡々と語ってはいるが、現実に自分の友達がこういう女性だったら、どう思うだろう?出来ることなら、自分の人生をある程度の時間きちんと生き、仕事や好きなことをした後、子供を一定期間だけでも最優先できる成熟度をもって産むべきか、あるいは若くして産んでも一定期間はやはり最優先し、どこかで一気に自分を最優先して家庭の枠の中から飛び出しても良いのでは?というかもしれない。
何がベストなのか、おそらくは一定期間は自分を殺して子供を最優先にし、ある程度育ったところで自分を最優先に切り替える母親だろう。上手にやれている人は現実には結構いる。そのタイミングをはかる能力や、そこに至るバランス感覚はなかなかのものだと思う。
最悪なのは最優先すべき自分がない母親だ。空っぽの自分を埋めるための存在として子供を産み、育てたとしたら、子離れできない母親が出来上がり、子供はある程度成長したところで、大切に育ててくれたことのプラス面よりも遙かにマイナス面の方が大きいことに気付くだろう。
タイミングを見はからうのは重要だが、自分を大事にしていない人が家庭を大事にできるとも思えないし、そういう意味で「プール」「リストランテ・パラディーゾ」「あけがたルージュ」の母親たちは迷ったり、迷っていなかったりといろいろだが、自分の意志で人生を生き、自分を大切にしているのは良い方に受け止めることが私は出来る。
この主人公の女性は著者の実際の母親をモデルにしているそうだ。母親を恨んでいたら、こんな作品は描けなかっただろう。そして作者が仕事を優先しながら、家庭を大切にし、そしてそれが出来るパートナーを選んだことは「今日もお天気」等の作品からよくわかる。
昔の自分なら、こういう作品は受け付けなかっただろうなと思った。