最近読んだ本、見た映画・芝居、聞いたCD

ドイツ文学

2011年4月25日

カンポ・サント/W.G.ゼーバルト

カンポ・サント白水社のゼーバルト・コレクション5冊目。まとまった一つの作品ではなく、三部集のような体裁だ。

散文4本はコルシカ島探訪の紀行文。うまく続かずに頓挫してしまったものらしい。しかし、ちょっと紀行文なんだか現実なんだか幻想なんだかよくわからないところが、ゼーバルトらしい。この声高に叫ばない静かな筆致が何より好きだ。一方でトーマス・ベルンハルトのような罵倒しまくりも好きなところが、我ながらよくわからない。

私は亡霊や幽霊が普通に出てくる話が比較的好きだ。と言ってもオカルト好きなわけではない。日本人にとってはそんなに遠い存在ではないように思える。悪いのもいるが、みんながみんなそうではない。なんというか、自然にいるものとして認識している。ゼーバルトのお話に出てくる幽霊もそんな感じ。人間にとっては当たり前の存在のように登場している。ここにあるコルシカ島での死者の扱いに親近感を覚える。

エッセイの方になると、書かれた時期が違うこともあり、急に堅苦しい論文になる。それも時代を経て徐々に穏やかになっていくのだが。主にドイツ文学に関するエッセイ群である。

最初はペーター・ハントケの「カスパー」だが、ハントケの作品に限らず、カスパー・ハウザーについては独文者なら、うんざりするほど接しているだろう。文学や映画の素材として取り上げられることも多く、ゼーバルトもドイツ人・同時代人としてペーター・ハントケの戯曲に触発されるものがあったのだろう。

「歴史と博物誌のあいだ」は「空襲と文学」に内容は近い。第二次世界大戦で壊滅されたドイツの空襲を取り上げた数少ない作品、カザック、ノサック、クルーゲをとりあげている。「哀悼の構築」も引き続き戦後文学についてのエッセイ。ギュンター・グラス「蝸牛の日記」とヴォルフガング・ヒルデスハイマー「テュンセット」を中心に、第二次大戦直後、犠牲者を哀悼する文学が欠落していることを取り上げており、「空襲と文学」のテーマに寄り添っている。

二本のエッセイでカフカに触れている。1本目の「スイス経由、女郎屋へ」はカフカがマックス・ブロートとともにプラハからスイス、イタリア、パリを旅した日記に寄せたエッセイ。もう1本の「カフカの映画館」では冒頭、ヴィム・ヴェンダース監督の「さすらい」が取り上げられている。あまりの意外さに驚きながら読み進めていくと、主演のうちの一人、ハンス・ツィッシュラーの著書についてのエッセイだった。ハンス・ツィッシュラーは俳優としてのみならず、翻訳家、映画監督、演劇プロデューサー、出版人などマルチな人で有名だ。これまであまり触れられることのなかった内容のカフカ研究書「カフカ、映画に行く」を書いていた。これは知らなかった。

「赤茶色の毛皮のなぞ」はチャトウィンの「どうして僕はこんなところに」を読もうと思っていたところなので、タイミングが非常によかった。私は「パタゴニア」しか読んだことがないのだが、これがとても好きな本で、紀行ものとしては自分の中では3本の指に入る。ここにあるニコラス・シェイクスピアの「ブルース・チャトウィン」という伝記、誰か訳してくれないものか。

こういう評論集を読むと、W.G.ゼーバルトはやはり同時代の人だったんだなとつくづく感じる。池澤夏樹の解説が最後についているのだが、ほぼ同年代だそうだ。本当にこれから、というときに亡くなったんだなと思う。もったいない。このシリーズも残るは「アウステルリッツ」の改訳のみ。なぜ改訳を出すのかは出てみてからわかるだろう。新作はもう読めないのだなと思うと残念でしかたがない。

■書誌事項
W.G.ゼーバルト著,鈴木仁子訳
白水社 2011.3.30 216p ISBN978-4-560-02733-2
■目次
散文
 アジャクシオ短訪
 聖苑(カンポ・サント)
 海上のアルプス
 かつての学舎の庭
エッセイ
 異質・統合・危機―ペーター・ハントケの戯曲『カスパー』
 歴史と博物誌のあいだ―壊滅の文学的描写について
 哀悼の構築―ギュンター・グラスとヴォルフガング・ヒルデスハイマー
 小兎の子、ちい兎―詩人エルンスト・ヘルベックのトーテム動物
 スイス経由、女郎屋へ―カフカの旅日記によせて
 夢のテクスチュア
 映画館の中のカフカ
 Scomber scombrus または大西洋鯖―ヤン・ペーター・トリップの絵画によせて
 赤茶色の毛皮のなぞ―ブルース・チャトウィンへの接近
 楽興の時
 復元のこころみ
 ドイツ・アカデミー入会の辞

2010年7月 7日

そんな日の雨傘に ヴィルヘルム・ゲナツィーノ

そんな日の雨傘に

46歳、無職、つい最近彼女に捨てられた。
どこにも居場所がない......。

こんな帯見たら、すごくさえないおっさんの暗い話かなと思ってしまうのだが、あまり暗くない。それに、おじさんは思っていたよりさえないわけではない。

とはいえ、主人公の男は事実彼女に捨てられたばかりだし、仕事もなくしそうな状況に陥る。ギャラがいきなり75パーセントカットというのは、それは普通やめろという意味だ。その仕事が「靴の試し履き」で、高級靴を履いて街を歩き回り、その使用感をレポートするというもの。

彼は継続的な仕事に就いたことがない、というか就こうとしない。相当なインテリのようだが、仕事が長続きしない。そして今は「自分に存在証明を出したことがない」と己のレーゾンデートルのなさに確信をもっている。街を歩きながら人々を観察し、妄想ばかりしている。彼女の残していった預金通帳がいつ引き上げられるかわからないので、経済的にもせっぱ詰まっている。「上着を投げてしまう」=狂気に陥るか、「消えてしまいたい」=自殺するか、二者択一なくらい精神的にも追い詰められている......はずなのだが、そのわりに彼はのんきな感じがする。

彼は街を歩きながら、よく昔の知り合いに出会う。地下鉄があったり、大きなデパートがあったりするので大きな街なのだろうと思うが(どうやらフランクフルトらしい)、そんなに頻繁に知り合いに会うかな、普通、と思ってしまう。幼い頃からこの街で育っているらしく、嫌いな知り合いにも会ってしまうが、よく昔のガールフレンドにも会う。それから、彼女に振られた直後のわりに、それなりに懇ろな女性もちゃんといる。どうやら、彼にはあまり孤独感が漂っておらず、だから死か狂気か、といった緊迫感がない。彼をなんとか救っているのは、実は歩き回っているこの街なのではないかと思ったりもする。街に対して愛情あふれた書き方では決してないのだけれど。

昔自分をひどい目に遭わせたイヤな奴が、自分から女性を奪ったとわかっても、その頼みを聞いてやる人の良さが、結局彼に新しい仕事をもたらす。長年の彼女は去っていったが、新しい彼女も出来た。そうやって彼をなんとか立ち直らせたのは、その、当のイヤな奴がデパートのチラシのポスティングをしている姿、それでも車の鏡でカッコつけている姿のようだ。とても俗っぽいが、「ああはなりたくない」という気持ちが、この最後の方のシーンには出ていた。能力があっても仕事に就こうとしないような頑なで面倒くさい男だが、人間を動かすのは所詮そんなものの力なのだろう。

最後に、一つわからなかった点を。彼は街を歩きながらいろいろなものを観察する。サーカスで馬の毛を剥くのに夢中になっている少女、掃除人がつれて来る子供などなど。その中に、時折障碍者が入ってくる。デパートの中で車いすの女性、日用雑貨店の前の手回しオルガンに合わせて手を叩いているダウン症の青年など。彼らに目をとめる理由は何なのだろう。そのまなざしは淡々としていて特に感情をもたない。単純にドイツの町中だから日本などよりよく見かけるというだけか、それならわざわざ書かないだろう。この点の解釈を誰かに教えてもらいたいと思っている。

■著者:ヴィルヘルム・ゲナツィーノ著,鈴木仁子訳
■書誌事項:白水社 2010.6.20 ISBN978-4-560-09010-7
■原題:Ein Regenschrim für diesen Tag : Wilhelm Genazino, 2001


2009年9月 1日

僕とカミンスキー

世界の測量 ガウスとフンボルトの物語「世界の測量 ガウスとフンボルト」と同じ作者の作品。「ロードムービー風物語」なんてamazonに書いてあるから期待したのだけど、思ったより旅は長くなくて、少しがっかり。後半からようやく旅が始まるが、あまりいろいろなところへ立ち寄っているわけでもない。

主人公ツェルナーが高慢で自意識過剰で、野心家で、エゴイスティックでとても嫌な感じの人物。インタビュアーのくせにしかしながら、その男を手玉に取るカミンスキーもわがままでエゴイスティック度では更に上回る。ツェルナーを振り回す様子が痛快というよりは、ミリアム含め、イヤな人ばかりだ、この小説は。

考えてみれば、ガウスやフンボルトも風変わりで高慢な人物だった。ケールマンはそういうのが好きらしい。

「世界の測量」ほどは面白くないけれど、ラストが爽快。海で二人が別れる場面、全然シチュエーションが違うが、「アメリカの友人」のラストを思い出した。

■著者:瀬川裕司訳
■書誌事項:三修社 2008.5.23 334p ISBN4-384-04195-/ISBN978-4-384-04195-84107-1
■原題:Ich und Kaminski, 2003, Daniel Kehlmann


2009年7月21日

世界の測量―ガウスとフンボルトの物語

世界の測量 ガウスとフンボルトの物語ガウスとフンボルト…ドイツ人ってどうしてこう偏屈で頑固で偏執狂的なんだろう…の中でも特にすさまじくひどい二人。大笑いさせてもらいました。

二人とも自信家で高慢で他人にはどうでもよさそうなことに執拗にこだわり、正確さを求める。けれど一方は世界を旅し、一方は国内から出ようとしない。一方は女好きで一方は女嫌い(というかゲイですが)。一方は交渉ベタで一方は交渉上手。ひどく似通っていて、それでいてひどく違うこの二人が同時代人であることから、こんな面白い冒険譚を思いついたのだろう。

フンボルトがアマゾンのジャングルでも高山でも制服を脱がず、「鉱山試補」という肩書きにこだわっているところは、うっとりするぐらいドイツ人っぽい。「ドイツ的である」というところがこの物語のテーマの一つだろうと思うのだが、実際のところ、現代のドイツ人もそうなんだろうか。私がよく本で親しんでいるドイツ人はこの時代のドイツ人、19世紀末頃のドイツ人なので、現代人はそんなこともないのだろうと思うが、ベストセラーになったところを見ると、そうでもないらしい。典型的なドイツ人のカリカチュアとして国内でもヨーロッパで受けたような気がする。

ドイツ初の冒険小説という人もいるが、このジャンル、ドイツの古典的な教養小説の流れを汲んでいるので、まさに偏執狂的「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」なのではないかと思われる。

それにしてもフンボルトのスケールの大きさは楽しくてしょうがない。オリノコ川を遡る旅のあたりが一番気に入っている。

■著者:瀬川裕司訳
■書誌事項:三修社 2008.5.23 334p ISBN4-384-04107-1/ISBN978-4-384-04107-1
■原題:Die Vermessung der Welt. 2005, Daniel Kehlmann


2008年11月13日

空襲と文学

空襲と文学本書は講演や論文で構成されているため、いつものエッセイなんだか小説なんだか、論文なんだか、つかみづらい独特のふわっとした感触のないところは寂しいが、ゼーバルトの文学観・歴史観を知る上では欠かせない一冊らしい。

ドイツ人の戦争責任に対する意識というテーマについては、過去に多くの書籍を読んだ。日本人との差をその都度強く意識させられた。が、逆にドイツ国民の被害者としての面が抑圧されているという話かと思い、本書を読み始めた。


ドイツ人が第二次大戦末期に被った絨毯爆撃攻撃に対して、声高にその戦略的・道義的に異議を唱えなかったのは


詮ずるところ、そのもっとも大きな原因は、何百万人を収容所で殺害しあるいは過酷な使役の果てに死に至らしめたような国の民が、戦勝国に向かって、ドイツの都市破壊を命じた軍事的・政治的な理屈を説明せよと言えなかったためであろう。

なんだか、すごく「ぶっちゃけ」なわけだ。

「言語を絶する」という表現があるが、空襲体験というのは未曾有の出来事で、その破壊のすさまじさはまさにそういう表現がふさわしい。だが、そこをあえて文学として昇華させていくことが何故出来なかったのか、というのが本書のテーマなようだ。読み進めていくと、空襲をテーマにした数点の作品は存在するが、それ以外は全然ダメだよ、という話だ。

資料性が高いものはあるが、それは文学ではない。あまりにも凄まじい体験だった故に実際に空襲に遭った人物がノンフィクションとして書かれたものも文学ではない。そして、幻想文学や技巧に走ったものも、拒否する。文学としてふさわしい作品をいくつか上げ、そしてそれらが受容されていないことを論証していく、そんな展開だ。具体的な例をあげてくれているが、なじみのある名前が見られる。

ノサックやジャン・アメリーに対する評論と、アンデルシュに対する評論と、並べて読んでみるとアンデルシュに対する情け容赦ない叩き方は半端ではない。私の持っているゼーガースの作品が収録された文学全集(集英社 1965)の巻にはノサックとアンデルシュが一緒に入っている。日本での扱いが「第二次大戦を描いた戦後文学」ということでひとくくりだったことがわかる。

ノサックあたりから読んでみようか。

■著者:W.G.ゼーバルト著,鈴木仁子訳
■書誌事項:新潮社 2008.10.10 349p ISBN4-560-02732-3/ISBN978-4-560-02732-5
■原題:Luftkrieg und Literature, 2001 W.G.Sebald

> 「ドイツ文学」の記事一覧