境界なき土地/ホセ・ドノソ
娼館でマヌエラが目を覚ますところから物語は始まる。娘のハポネシータと二人で一つのベッドで寝ているらしい。その娘のために朝食を用意しなくてはならない。店の方は娘の方が有能なために仕切られてしまい、母親である彼女は娘に頭があがらないようだ...と読み進めていくと、突然「あれでも一応ハポネシータの父親だぞ」という言葉が出て来て、慌てて最初に戻る。すると、頭の方で"カマ親父"という言葉が出てくるのに、気付かなかった。ストーリーはずっとマヌエラの一人称で進むわけではないが、意図的に冒頭はマヌエラなので、思わず苦笑してしまう。語り手はハポネシータに移動したり、三人称になったり、パンチョになったりもする。その辺はスムースに読んでいける。
マヌエラは物語の最初からずっとパンチョを恐れ、乱暴な口をきく男を嫌い、ドン・アレホのような紳士は違うと言い続けるのだが、一方でその乱暴さと情熱を強く求めていて、破滅願望があるように読める。また、パンチョの方も冗談でマヌエラに惚れていると言いながら、実は完全に本気で、一方それを義弟に見とがめられることを恐れていて、自分でも認めるのも怖がっている。
終盤、酔っぱらっていい気分になった二人が、それぞれハっと我にかえるシーン。オクタビオがいなければ、二人そのまま行くところまで行っただろう。マヌエラの方は同じような経験があって、いつもこうやって邪魔する奴がいると思う。一方、パンチョは自分の中にわき上がってきた感情を否定するためにマヌエラを殴る。そこでようやくマヌエラは目が覚めるのだが、その後の顛末は結局のところ彼女の望みどおりではなかったのか。
ハポネシータは土地や血縁に縛り付けられている。ハポネサと呼ばれたふくよかな母の後を継いでこの娼館を切り盛りする彼女は女としては欠陥をもっている。娼婦=女として求められているのはふくよかさ、あたたかさ。マヌエラにも終始ハポネシータは冷たいと言われている。心の冷たさだけでなく、体温と両方の意味らしい。父親に男を奪われてしまうという哀しい宿命を背負った若い娘だが、このままこの街で埋もれていくのだろうか。
ところで、ドン・アレホの犬の名前「ネグス、スルタン、モロ、オテロ」には何か意味があるような気がする。紳士と言われるドン・アレホの残虐さが現れているエピソードで、この犬たちがやがてマヌエラを食い尽くすだろうとの予感を残して終わる。
読み進めるうちに感じたのが、マヌエラが「蜘蛛女のキス」のモリーナと重なること。それもそのはず。この作品が映画化された際、脚本を書いたのはマヌエル・プイグ。1978年公開映画で、「蜘蛛女のキス」の刊行は1979年。プイグがインスピレーションを受けたことは間違いないだろう。
「夜のみだらな鳥」の前に書かれた作品で、あれに比べたらかなりおとなしい作品だ。だが一つの物語としてはとてもよくまとまっていて、バルガス=リョサが絶賛するのも納得だ。またブニュエルが映画化したがったのもわかる。電気も通っていない陰気な街に赤いトラックと赤いドレス。絵が浮かぶ。残念ながらブニュエルは映画化できなかったが、他の監督が映画化した。
映画の話や他の作品の刊行について、まとめてみたのがこちら。→ホセ・ドノソ祭り―故人であるチリの作家の新刊が出るのでお祭り。
■書誌事項
著者:ホセ・ドノソ著,寺尾隆吉訳
書誌事項:水声社(フィクションのエル・ドラード) 2013.7.15 171p ISBN978-4-89176-952-9
原題:El lugar sin límites,1966 José Donoso
※オビに「バルガス=ジョサ」とあって、最初から脱力してしまうが何とか読み切る。私はスペイン語のことはよくわからないので、「ジョサ」の方が正しいのだと言われたら「そうですか」としか言いようがないが、ではどうしてずっと「リョサ」だったのか。多数の作品がすでに刊行されているのだ。それに合わせることにどんな不都合があるのか。研究者として「ジョサ」を主張する方は多いに語って欲しい。そうでなければ、もともと数少ない海外文学の読者を混乱させること、書店員や司書さんたちの迷惑、最終的には販売数というところに還ってきて出版社の不利益などのデメリットに鑑み、強行に「ジョサ」を使うことのメリットはなんなのでしょうか?この訳者の方は「嘘から出たまこと」のときもそうだったので、多分版元ではなく、ご本人の主張なのでしょう。せっかくたくさん翻訳して下さっているのに、このことだけがトゲのようにずっと刺さっていて、手放しで読む気になれません。