パウリーナの思い出に/アドルフォ・ビオイ=カサーレス
おそらく3~4年前に本書の刊行予定が国書刊行会のサイトにあがって以来、心待ちにしていた。美しい幻想文学だが、SFや推理小説の要素が多く盛り込まれ、エンターテイメント性も高い。親しみやすい、やさしい文体で、物語に入り込みやすい。明瞭でかつ曖昧な物語進行に添って読んでいると、予想外の展開が待ち受けていて、その巧みさにあっという間に終着地点へ連れていかれてしまう。
日本では、ビオイ・カサーレスは長編が多数出ているが、短篇はアンソロジーの中にちらほらと織り込まれているのみだった。これは初の短篇集で、独自に編まれたもの。表題作と「大空の陰謀」は既訳で私も既読だが、それ以外はすべて初訳だそうだ。
「パウリーナの思い出に」は愛を見失った不誠実な女の美しくて哀しい物語だ。単なる幽霊話ではない。カサーレスの幻想物語は一筋縄ではいかない。
「二人の側から」子供の視点からは異世界への危険性は感じることはない。現実の世界と異世界の境界線が曖昧な子供の感覚ならではの行動に戦慄を覚える。
「愛のからくり」はブルジョアっぽい転地療養もので、チリとアルゼンチンにまたがるアンデスを望む町での出来事。昔旅したメンドーサを思い出す。"非常事態に盛り上がる愛=吊り橋効果"のお話と言ってしまえばそれまでだが、そこにバッカス神が絡んでくるからおもしろい。バッカス神がアモーレをまき散らしたのか?
"バッカス神をまつるリベリア祭"が3月で、南半球では北半球とは季節が逆転しているのであちらの3月がこちらの9月というのは季節が重要な要素をもつお祭りだからだろう。でもそんなに厳密なものなのかかどうかはわからない。キリスト教のお祭りならあり得るが、古代ローマのお祭りにそんな厳密性が?とは言え、古代ローマのお祭りを南半球で再現しようという発想が面白い。
「墓穴掘り」はほとんど推理小説で、比較的幻想的な要素が少ないが、強迫観念が幻影となって活躍。田舎の宿というあたりが「郵便配達は二度ベルを鳴らす」を思い起こさせるが、あんなに色っぽくはない。のんびりとした田舎の雰囲気が漂っているところに犯罪が行われ、その落差のせいか、興味深さを感じて物語に入り込みやすい。
「大空の陰謀」はSFでいうところの平行時間、並行世界を描いもの。時間を往復していたのはモレス大尉だが、それを聞いて語る医者カルロスという多層構造の中で、二つの世界の距離をつくり、かつ束ねているものは結局なんだろうと疑問に思っているうちに物語が収束していく。
「影の下」はアフリカが舞台だが、回想の中でフランスのエビアンが登場するという距離感。愛人の不義を疑った男が運命的に愛人と引き離されていく様を描いているが、意志薄弱と疑心暗鬼とうい己の弱さを運命と言ってるだけではないかと思う。しかしそこにこの不思議なアフリカのムードに包まれ、これもまた運命かと思わせる筆致。
「偶像」は古典的な骨董奇譚で犬の置物が主役。しかし、ジュヌヴィエーヌがいるせいで、なぜだかそう悪いもののようには思えないのが不思議だ。
「大熾天使」も転地療養もの。こちらは雪山の見えるさわやかな町と違い、ムっとした硫黄くささの充満する海岸の湯治場で、一瞬熱海を連想するが、もっと暗い印象。単に湯治に来た男が「世界の終わり」という大きな出来事を前にして、日頃の無関心を覆す行動に出る。
「真実の顔」は輪廻転生のお話だが、ちょっとあまり気持ちの良いものではないのが微妙。この短篇集の中では一番短い作品。
「雪の偽証」はクリスティの「アクロイド殺人事件」以上に意表をつく語り手による偽装がほどこされている。ビニャファーニェの手記の外枠に「A.B.C.」(Adolfo Bioy Casares)の語りがあり、この複数の語り手という作りが、巧妙な偽装を可能にしている。この語りの巧みさにはまったくうならされた。
カサーレスの作品には天使や神ではなく、人間の不完全な愛がベースにあることが多いので、幻想文学の中でも私にとっては親しみやすく楽しめるものが多い。解説にボルヘス作品が「アレフ」に到達するのに対して、カサーレスの方向性は逆であると書いてあって、この辺は私には難しい話なのだが、肌で感じるところもある。待ったかいはあったなと思う。
■書誌事項
著者:アドルフォ・ビオイ=カサーレス著,野村竜仁,高岡麻衣訳
書誌事項:国書刊行会 2013.5.25 360p ISBN978-4-336-04841-7
原題:En memoria de Paulina : Adolfo Bioy Casares
■収録作品
パウリーナの思い出に En memoria de Paulina
二人の側から De los dos lados
愛のからくり Clave para un amor
墓穴掘り Cavar un foso
大空の陰謀 La trama celeste
影の下 El lado de la sombra
偶像 El ídolo
大熾天使 El gran Serafín
真実の顔 Las caras de la verdad
雪の偽証 El perjurio de la nieve