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2012年8月18日

無分別/オラシオ・カステジャーノス・モヤ

無分別小説はやっぱり最初と最後が肝心だなと思わせられた。冒頭が「ガツン」で、最後が「おお!」という感じ。中編だけれど、中身の濃い、いい感じのお腹いっぱいさだった。先住民大虐殺の「報告書」1,000枚以上の原稿の校閲の仕事を請け負った主人公が次第におかしくなっていく話。

自分は残酷な話がやはり苦手なため、実際の記録である「グアテマラ虐殺の記憶」がモデルなのだろうとわかっていただけに、ビクビクしながら読み進めたら、残虐な話も出てくるは出てくるが、予想よりは少なくて安心した。むしろ、女ぐせの悪い主人公に苦笑しながら、意外におもしろく読み進められた。とは言え、虐殺にまつわる恐ろしい表現はときおり登場する。また予想通り「実話に基づいた残虐エピソード」だったため、私の神経が耐えられるギリギリのラインだったように感じる。

それにしても彼が神経をやられるのは当然だ。何が"無分別"なのかは140ページに書いてあるが、この仕事を引き受けた段階で無分別だと言ってやりたくなる。現場で何かがおかしくなっている空気の中でなく、通常の環境で落ち着いて文章として読んだら、人間である以上、神経はおかしくなるに決まっている。それが暴力の破壊力なのだろう。

モヤはトーマス・ベルンハルトの影響を受け、改行なし、センテンスなしの長い文章だそうだが、もっと激しい罵倒がないとベルンハルトのノリは味わえない。「崩壊」の方がその点ではよかったかもしれない。

後書きに「カステジャーノス」の"ジャ"の件が出ていた。あぁやっぱり"リャ"なのか。現代企画室はこういうところ変な主義主張があるようだ。白水社は先行の翻訳に合わせて「カステジャーノス」の方で合わせた。これは作者の要望というが、正しい判断だろう。表記が別れることに、メリットはない。だから先行翻訳書が圧倒的に「リョサ」なのに、後から「ジョサ」で出す現代企画室はおかしい。諸説あるのは知ってはいるが、自分は本書の翻訳者のように「アルゼンチン以外ではリャリュリョ」を基本にして良いという認識でいる。あえて"リョサ"にしないことに、どんな意味があるのか。営業的なデメリットも大きいだろうに。

帯に「ロベルト・ボラーニョ絶賛」とある。セサル・アイラ「わたしの物語」の後書きにもボラーニョが評価していたと書いてある。それだけボラーニョという人が日本の翻訳文学を読む読者に対して「なんなくあんな感じ」と雰囲気をつかませる手だてになっているのだろう。この人の訳を出した先行者は、白水社だった。

原題:Insensatez, Horacio Castellanos Moya. 2004
著者:オラシオ・カステジャーノス・モヤ著,細野豊訳
書誌事項:白水社 2012.8.20 164p ISBN978-4-560-09023-7(エクス・リブリス)

「崩壊」オラシオ・カステジャーノス・モヤ