最近読んだ本、見た映画・芝居、聞いたCD

2012年8月

2012年8月27日

パライソ・トラベル/ホルヘ・フランコ

パライソ・トラベル/ホルヘ・フランココロンビアのメデジンに住む平凡な青年マーロン。高校を卒業間近か卒業直後で、私立大学へ行く金はないが、公立大学に入るには突出した学力か政治家のコネでもないと入れない。ゆえに宙ぶらりんな状態でアルバイトをしている。彼にとっては幼馴染みのレイナが魅力的な女の子になって戻ってきて、男友達との争いの結果、自分を選んでくれたことが最近で起きた何より嬉しい出来事だった。ところがレイナがニューヨークに憧れて、危険を顧みず出国すると言い出して、彼の人生の歯車が狂い始める。

ニューヨークに到着した晩、レイナとバカバカしい理由でその意図なく分かれてしまって迷子になったマーロンはニューヨークの街をボロぞうきんのようになって、レイナを探す。

これは奇跡的に美しい純愛物語だ。このインターネットの時代、facebookで大学卒業以来会ってない友人が今朝何を食べたかもわかるような、そんな時代に昨夜いた場所に戻ることが出来なくなるなんて、そんな状況は考えられない。ビザの取りにくい「コロンビア」からの密入国者という特殊事情、それも英語がまったく話せないまま来てしまうなんて無謀な話だったから作り出せた状況だ。

そして、この物語の一部はロード・ムービーのように見える。だから映画になっても当然だろう。残念ながら日本では公開されていないようだ。

1.マーロンがレイナとニューヨークへ到着し、二人が離れてからの出来事。
2.マーロンとレイナがコロンビアで出会い、出国を決意し、ニューヨークにたどりつくまでの旅路。
3.マーロンがレイナを見つけてから、ニューヨークからマイアミへの旅路。

マーロンの一人称語りで1.と3.の中に2.が回想として織り込まれている構造をとっている。中心となるのは「1」の部分で、「3」はもう終盤という感じだが、ロード・ムービーっぽいのは「2」の部分だ。最初にニューヨークに到着しているので、とりあえず着けることはわかってはいるのだが、それでも苛酷な脱出劇をハラハラしながら読んでいく。

ホームレスのマーロンに対して、途中からパトリシア視点で眺めている自分に気付き、苦笑。自分も捨てられた小犬を放っておいたりは、しないだろうなと思う。おかみさんという生き物はこういうものだという典型的な女性。ジョヴァンニの友情やロジャー・ペーナのうさんくささにも惹かれる。冒険につきものの危険、厳しさ、冷酷さ、優しさ、慈しみ、哀しさとたくさんの要素が詰め込まれていて、シリアスで暗いながら非常に楽しく、夢中で読み進めた。


(ここからネタバレになります)

レイナは「ここでは生きられない」「ここで生きるなら死んだ方がマシ」と思い、実際に実行に移してみせていたりする。だから断固としてニューヨークへ行こうとするのだ。こういう人を結構見たことはある。端から見ると「ここでもうまくやっているのに」と思うのだが、それでも遠くへ行かなければ自分は生きられないと強い意志のある人の場合、望んだ場所でも生きられる。しかし、「ここがイヤ、だから出て行く」ということが一見してわかるほど周囲とうまく行ってない人は、結局その望んだ場所では生きられず、戻ってくる確率が高い。そんなことは当たり前のような気がするのだが、当人たちにはわからないようだ。

英語も出来ないし、何のキャリアもない若者が、まともな職について働こうとするのは至難の技だ。レイナもアメリカに行く前、コロンビアにいる時間で何か出来ることがなかったのかと思うのだが、多分あの国では無理なのだろう。教育を受けることが出来なければ、コネでもなければ仕事は得られず、キャリアはアップしない。予想通り彼女のアメリカ行きは失敗だった。マーロンと分かれてしまったことも、その後のことも含めて。それがコロンビアの現実なのだろう。

一方、マーロンの方は「ここでも別にいいや」と思っているからニューヨーク行きには乗り気ではない。でも「レイナと一緒にいたい」故に共に旅に出る。それがニューヨークでレイナと分かれたら帰れば良いのに「家に帰っても何かが欠けている」と感じたが故に、どうしてもレイナを見つけようとする。

何とかニューヨークで一人で生活を築き、恋人も出来そうになったのに、レイナが見つかったら会いに行く。そうしなくてはどんな結論も出ないのだから、それも当然だろう。だがその先で彼が見つけたのはレイナではなく、別のものだった、というのが結論だ。

マーロンはこの後ニューヨークに戻り、ミラグロスとよりは戻せないかもしれないが、ドン・パストールの店で働き続けるんだろう。祖国を胸に、アメリカで生きようと決意したのではないかと思えたのが、読後感が悪くはなかった証拠だ。

タバコのポイ捨てがキーなのはNYらしいと思った。

原題:Paraiso Travel, Jorge Franco. 2001
著者:ホルヘ・フランコ著,田村さと子訳
書誌事項:河出書房新社 2012.8.30 302p ISBN978-4-309-20602-8

「ロサリオの鋏」ホルヘ・フランコ

2012年8月18日

無分別/オラシオ・カステジャーノス・モヤ

無分別小説はやっぱり最初と最後が肝心だなと思わせられた。冒頭が「ガツン」で、最後が「おお!」という感じ。中編だけれど、中身の濃い、いい感じのお腹いっぱいさだった。先住民大虐殺の「報告書」1,000枚以上の原稿の校閲の仕事を請け負った主人公が次第におかしくなっていく話。

自分は残酷な話がやはり苦手なため、実際の記録である「グアテマラ虐殺の記憶」がモデルなのだろうとわかっていただけに、ビクビクしながら読み進めたら、残虐な話も出てくるは出てくるが、予想よりは少なくて安心した。むしろ、女ぐせの悪い主人公に苦笑しながら、意外におもしろく読み進められた。とは言え、虐殺にまつわる恐ろしい表現はときおり登場する。また予想通り「実話に基づいた残虐エピソード」だったため、私の神経が耐えられるギリギリのラインだったように感じる。

それにしても彼が神経をやられるのは当然だ。何が"無分別"なのかは140ページに書いてあるが、この仕事を引き受けた段階で無分別だと言ってやりたくなる。現場で何かがおかしくなっている空気の中でなく、通常の環境で落ち着いて文章として読んだら、人間である以上、神経はおかしくなるに決まっている。それが暴力の破壊力なのだろう。

モヤはトーマス・ベルンハルトの影響を受け、改行なし、センテンスなしの長い文章だそうだが、もっと激しい罵倒がないとベルンハルトのノリは味わえない。「崩壊」の方がその点ではよかったかもしれない。

後書きに「カステジャーノス」の"ジャ"の件が出ていた。あぁやっぱり"リャ"なのか。現代企画室はこういうところ変な主義主張があるようだ。白水社は先行の翻訳に合わせて「カステジャーノス」の方で合わせた。これは作者の要望というが、正しい判断だろう。表記が別れることに、メリットはない。だから先行翻訳書が圧倒的に「リョサ」なのに、後から「ジョサ」で出す現代企画室はおかしい。諸説あるのは知ってはいるが、自分は本書の翻訳者のように「アルゼンチン以外ではリャリュリョ」を基本にして良いという認識でいる。あえて"リョサ"にしないことに、どんな意味があるのか。営業的なデメリットも大きいだろうに。

帯に「ロベルト・ボラーニョ絶賛」とある。セサル・アイラ「わたしの物語」の後書きにもボラーニョが評価していたと書いてある。それだけボラーニョという人が日本の翻訳文学を読む読者に対して「なんなくあんな感じ」と雰囲気をつかませる手だてになっているのだろう。この人の訳を出した先行者は、白水社だった。

原題:Insensatez, Horacio Castellanos Moya. 2004
著者:オラシオ・カステジャーノス・モヤ著,細野豊訳
書誌事項:白水社 2012.8.20 164p ISBN978-4-560-09023-7(エクス・リブリス)

「崩壊」オラシオ・カステジャーノス・モヤ

2012年8月 7日

わたしの物語/セサル・アイラ

わたしの物語/セサル・アイラ装幀の鮮やかなピンクの写真はいちごのアイスクリーム。このぬめっとした甘い感じ、美しいとも何とも言えない不思議な印象が、本書の内容に近いと感じる。不思議というか、すごく変な、ねじれた物語だ。読んでいるうちに何度か「あれ?」と前を読み返すハメになる。この本をネタバレなしで説明するのは私の能力では無理だ。

最初に、修道女になるまでの物語と宣言するので少女だという前提で読み進めると、途中で他の人からは少年の扱いとなる。結論を言ってしまうと修道女になんかなれない。そもそも最初からお父さんのことが大好きですと言いながら、優しいところなど見せたことがないという主人公。リアルな自伝のように物語を進めてながら、たくさんの幻想・妄想で満ちていて、どこからどこまでが現実のお話なのか、いやお話なのだから、最初からリアルではないのだ...と区別したがる読み手の頭の中を意図的に混乱させてくれる。

父親の事件、病院での治療と看護師、母親との生活、ラジオドラマ、学校の先生、初めて出来た友達など、小さい子供の成長記としてふさわしい物語の進め方をしながら、すべてにおいてぼんやりとした霞がかかったような、なんとも不思議な出来事を描いていく。例えば近代的な病院なのに看護師の行動がすごく変だし、学校の先生は親に文句を言われて他の生徒にその子の存在を無視するよう促すとか、さすがに変だ。最初に出来たお友達って、ほんわかしたお話のように見せかけて、これもまた変な子だし、なりゆきもまたおかしい。

例えば、1950年代における南米での都会の生活を伝えるのに「ラジオドラマ」は良い材料だと思う。貧しいながらも家庭でのわずかな楽しみとしてよく登場するモチーフだが、主人公の妄想癖を助長するアイテムとして使われていたりして、一筋縄ではいかない。各章一つ一つ「変だ」と思いながら読んでいくが、章末には一応の着地点があって、次に読み進められる。けれど最後にまた大きな「??」が飛び出して来る。おもしろいことは間違いないが、人にどう説明して勧めてよいのか悩む。

本書はセサル・アイラの初翻訳書だそうだ。名前を初めて知ったのは『ユリイカ』2008年3月号、特集・新しい世界文学に載った「悪魔の日記」という一篇の作品でのことだった。映画「ある日、突然」の原作者だった。中編の多い作家だそうだが、2本を1冊くらいにして、また別のものを出してくれたらいいのにと思う。

「新世紀・世界文学ナビ20 セサル・アイラ=ナビゲーター・柳原孝敦」(毎日新聞)

原題:Cómo me hice monja, César Aira. 1993
著者:セサル・アイラ著,柳原孝敦訳
書誌事項:松籟社 2012.7.27 158p ISBN978-4-87984-307-4(創造するラテンアメリカ)

ラ・ロハ―スペイン代表の秘密

ラ・ロハ―スペイン代表の秘密ユーロ2012はスペイン代表が優勝した。決勝までの試合、初戦のイタリア戦は好ゲームだったとは思うが、心臓によくなかった。北アイルランド戦は単純に楽しかった。その後は今ひとつだったが、決勝でものすごく良い状態で勝てた。最終的に印象に残ったのは、優勝後の彼等の様子だった。選手の子供達がグラウンドに降りてきて、銀の紙吹雪で遊んでいる。子供達が仲が良いのは、選手同士が家族ぐるみでつきあっているからだろう。そんなチームにまとまった、まさに「ファミリー」と呼べるチームは見たことがない。

本書はユーロ2008から2010年のワールドカップとその後までをスペイン代表に密着したスペイン人記者の記録を「footballista」木村浩嗣編集長が翻訳したもの。スペイン代表は何故強くなったのかがよくわかる本だった。

代表レベルになると、それもW杯優勝経験国あたりはそもそもメンバーにすごい選手を揃えている。どの国が優勝してもおかしくないメンバーだ。それを実際に勝てるチームにするのはチームの団結力と監督の手腕が重要。そしてチームの経験値もポイントになる。今回の優勝は過去の優勝経験者が多かった。フランスやオランダがぐだぐだなのは負けたからチームがバラバラになったのではなくて、最初から優勝できるようなチームになっていなかったのだ。そしてドイツは監督が若すぎて能力が足りなかった。

合宿所での過ごし方がチームをつくるというのはよく言われることだが、スペイン代表の場合は、なるほどすごい過ごし方だ。日本代表が合宿所でそんなことをしたら大問題になって新聞が大騒ぎするだろう。彼等は自分が参加している大会でトトカルチョをやっている。それも実際にお金を賭けているのだ。また、一部だが毎晩練習後にカードゲームをしているメンバーがいて、こちらもお金を賭けている。明らかなる賭博だが、そこはスペイン。おおらかで良いと思う。それでみんなが仲良くなれるのなら。2008、2010とプジョルがやっていた2012の胴元は誰がやったんだろう?という疑問はそのうち「footballista」が明らかにしてくれるだろう。

彼等の仲の良さを理解すると、ポルトガル人の監督にクラブで反旗を翻してライバルのクラブの選手に電話をしたイケル・カシージャスの行動が理解できるだろう。あのポルトガル人にスペイン代表のことまでは口出しする権利はない。クラブチームの心理的な軋轢が異常だったから、かつてのスペイン代表は弱かった。今更あの時代に帰るつもりはない。

監督がいかに重要かは本書がルイス・アラゴネス監督の異常なカリスマ性に多くの文字数を費やしていることからもわかる。スピーチ、毒舌、人柄、どれをとっても、ものすごく変な監督だが、すごい監督だったことはわかる。彼が今のスペイン代表の基礎を築いた。

ビセンテ・デル・ボスケ監督についてはアラゴネスほどの文字量が費やされているわけではないが、芯の強い人で、選手との信頼関係の厚い監督であることはよくわかった。アラゴネスほどのカリスマではないが、彼が選手に対する対応はまさに「慈愛」なのだろうと思う。本書の最後が息子のアルバロくんの「また(優勝パレードの)バスに乗せて?」で終わっているところがいい。アルバロくんがユーロ2012の優勝パレードでバスに乗ることができたかどうかは、「footballista」No.267のデル・ボスケへのインタビューでわかった。そして、優勝直後の様子が書かれていて、記者たちが監督を囲むのを一時止めさせたのは、やはり彼の存在だった。息子を抱きしめる時間をまずは監督にあげて欲しいというスタッフらの気持ちは、記者たちに通じたに違いない。

ものすごく勝手な憶測だが、ビセンテ・デル・ボスケという人物をつくる上で、この息子の存在がどれほど大きかったのだろうと思うと、胸がいっぱいになる。そしてこの本の著者や「footballista」の記者もあからさまには書いていないが、同じ考えをもっているに違いない。彼はもう20歳を過ぎた青年だが、ダウン症なのである。

サッカーの戦術関連書は頻繁に読んでいるが、これは久しぶりにガツっときた本だった。時間の都合上、このブログに実用書や解説本は取り上げない方針だが、これはノンフィクションとしても高いレベルだろう。ユーロ2012が始まる前に刊行され、すぐに買ったが結局読んだのはユーロが終わってからだった。スペイン代表はユーロ2008、2012W杯、ユーロ2012の3連覇を成就した。

そして五輪代表はあっさりと負けた。U-21で優勝したメンバーなのに、何故負けたのか。やっぱりチアゴ・アルカンタラという心臓部が欠けていたことは大きい。チャビなくして3連覇出来たのかかという問いに対する答えは明確だ。さらにこの本を読んだ後だから、監督の資質の問題は大きかったのだろうなと想像する。スペイン代表の次の世代が大丈夫かどうかはわからない。マタ、ジョルディ・アルバ、ハビエル・マルティネスの経験をベースに、チアゴ・アルカンタラらがつくっていくチームの団結力はとても重要だが、誰が監督なのかも大きいなとあらためて思った。


著者:ミゲル・アンヘル・ディアス著, 木村浩嗣訳
書誌事項:ソル・メディア 2012.6.8 392p ISBN978-4-90534910-5