ピナ・バウシュ強化月間
「ピナ・バウシュ タンツテアターとともに」 ライムント・ホーゲ著,五十嵐蕗子訳 三元社 1999.5.20(2011.1再版) |
「ピナ・バウシュ 怖がらずに踊ってごらん」 ヨッヘン・シュミット著,谷川道子訳 フィルムアート社 1999.6.1(2005.6.1第2版) |
ヴィム・ヴェンダース監督の「Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち」(PINA 3D)を観た。舞踏シーンの美しさには目を見張ったし、舞台芸術を映像化するのに3Dを使った点も理解できた。ただ、それとは別に自分がピナ・バウシュをまったく知らないことで、とまどったのも事実だ。私がピナ・バウシュについて知っていることと言えば、彼女のすばらしく美しいタバコを吸っている写真だけだ。実にカッコイイ。これだけ美しくタバコを吸える女性は少ないと思った。
言葉(戯曲)から舞台芸術に入っている私には縁のない存在だった。嫌いとか敬遠しているわけではなかったが、ピナ・バウシュだけでなく、コンテンポラリー・ダンスというか、現代舞踊というか、そういったジャンル全般に疎い。ダンスそのものに縁がなかった。
映画を観て感じたのは、まずこれがピナ・バウシュとヴッパタール舞踊団の作品の中で重要な作品の、しかも印象的で有名なシーンが詰まっているのだろうということ。それだからこそ、なのかもしれないが、とても面白いと感じた。その一方で、おそらくは一元的な解釈を嫌うのだろうということに不安を覚えるのだ。「これは何を意味しているのだろう?」と考えても、「それはあなたがそう思うのなら、そうなんじゃない?」と言われるのだろうなと簡単に予想できる。
何故カバなの?あの大きな石は何なの?イスをどかす人は何なの?正面に向き合っているカップルの体勢をしつこく変えようとしているのは何故なの?などと考えてはいけないのだろうか?いけないわけではないけれど、答えを人に押しつけてはいけないのだろうな、などと思うにつけ、正直少々面倒くさく感じるのだ。
それでもせっかくの映画を味わうのに少しでも手がかりがあった方が良いかなと思い、「春の祭典」「カフェ・ミュラー」「アリア」「コンタクトホフ」の4作品の動画(一部しかないが)をYouTubeで観た。それから本を2冊読んだ。予想通り、言葉でピナ・バウシュを説明することの困難さを訴える内容だが、それでも私たち読者に少しでも手がかりをくれようとして著者が努力していることがわかった。ロルフ・ボルツィクという名もその一つ。メリル・タンカード、そしてドミニク・メルシィ。たくさんの名前が出てきた。彼女の伝記も、少し役に立ちそうだ。
彼女がインタビュー嫌いなのはよくわかる。言葉で表現できる人なら劇作家にでもなっていただろう。本人がいわゆる「解釈」をいやがるのは当然だろうと思うが、観る方が安心できないので舞踊評論家がちゃんと説明してくれている。それに自分及び自分の芸術に対する一元的な捉え方「フェミニスト」「ドイツ人」といった定義付けを嫌う。「人間主義者」「人類の芸術家」であると訂正させる。それでも周囲は彼女の芸術の中から何かをつかもうとして、言葉を尽くしたくなるものだ。その気持ちはわかる。
ピナ・バウシュの舞台では彼女が問いかけを投げ、それに対し劇団員が自分自身で考えた動きをすることをベースに振り付けを組み立てていくという作り方もするという。「現代美術用語事典ver2.0」によるとタンツテアター Tanztheater は「ダンサーたちが日常的で個人的な経験に基づく断片的な場面をリハーサルに持ち寄ることによって作品が構成される」ものだそうだ。
本を読んだ結論から言うと、ピナ・バウシュの舞台を観て動揺するのは人としてまっとうだということのようだ。否定であれ同調であれ、魂が揺さぶられるのは間違いない。なんだか安心した。付け焼き刃でも何でも何もないよりはマシ。これでもう一度「PINA 3D」を観ることができる。一般上映は来年の2月だ。
最後に、フェリーにの「そして船は行く」はプレミアついて高い。レンタル屋なんかにはどこにもない。観たい...。