紙の民/サルバドール・プラセンシア
奇想天外というか奇妙キテレツというか、とんでもなく変な小説。アメリカ西海岸におけるチカーノ文学にこんなものが登場したのか。今年出た本では「オスカー・ワオ」に匹敵するかというくらい。どうもラテン系移民のアメリカ文学は今とても「来ている」のかもしれない。
「紙の民」は文字通り紙で出来た人のこと。創世記のような壮大な物語が始まったかと思うと、物語はいくつかに分岐していく。フェデリコ・デ・ラ・フェとメルセドの夫婦、それに娘のリトル・メルセドを加えた親子のストーリーが一つ目。土星ことサルバドール・プラセンシアのストーリーが二つ目。そして紙の民の末裔であるメルセド・デ・パペルのストーリーや聖人サントスとサヤマサトルのプロレス物語、本当はメキシコ生まれではないがそういう設定になっているリタ・ヘイワースの物語などが同時進行で進んで行く(ラテンの人はリタ・ヘイワース好きだな。プイグの「リタ・ヘイワースの背信」を思い出した)。
自分の夜尿症が原因で妻に去られたフェデリコ・デ・ラ・フェは娘を連れてメキシコからロサンゼルス郊外の花卉栽培を主産業とする町エルモンテに落ち着く。土星にすべてを上から見られているような気がしていたが、鉛の甲羅の中に隠れていれば見られないことに気付く。彼はエルモンテの若者たちEMFと組んで、土星への戦いを開始する。一方、土星はと言えば、この戦争のせいでリズに去られ、カメルーンにも逃げられそう。土星とEMFの戦いの幕は切って落とされた。しかし、どんな戦いをするんだ、この人たちは?と思いながらどんどん読み進めて行く。
けれど、読んでいると、とにかく痛いのである。「イタイ」とカタカナで言うところの痛さではなく、物理的な痛さを感じてしまう。私は刃物で切ったことはないのでわからないのだが、紙で切ったときの痛さはわかるから、それをいちいち思い出すため、メルセド・デ・パペルの物語はあまり一生懸命読むことができない。フェデリコ・デ・ラ・フェはやけどを負うことで夜尿症を治すし、カメルーンがハチに刺されることで精神的な安定を得る話は麻薬の暗喩かなぁと思いつつ、いやこれは本当にハチにさされる話だなと思ったり。
それから、なんだかいろいろにおってくる。「香り」ではなく「臭い」。フェデリコ・デ・ラ・フェの尿のにおい。リトル・メルセドが中毒になっているライムのにおい、エルモンテの町のカーネーションのにおい。土のにおい。さまざまな形で小説が触覚と嗅覚を刺激してくる。そして視覚的にも。大枠が物語る側と物語られる側の戦いのため、ページ上で戦いがすごいことになっている。普通の本ではあり得ないレイアウト。泥棒教会やアポロニオの母親の聖人の話などはメキシコでは普通にあることのように思えてしまう。五感を刺激しながら物語が渾然一体となって迫ってくる感じを受ける。
フェデリコ・デ・ラ・フェも土星もフロッギーも、女性に去られた後の男の情けなさを見せてくれるが、それでもフロッギーとフェデリコ・デ・ラ・フェはしつこくおいかけたりはしないので、まだいい。この土星の情けなささ、未練たらしさと言ったら。非常にうざくて、たいへん良いです。この情けなさが物語世界を一本貫いている筋のようなもので、これを頼りに進んで行けば迷わないような気がした。
■書誌事項
著者:サルバドール・プラセンシア著,藤井光訳
書誌事項:白水社 2011.8.10 284p ISBN978-4-560-08151-8
原題:The People of Paper , 2005, Salvador Plascencia