低開発の記憶/エドムンド・デスノエス
キューバ革命が起こった直後のキューバ。主人公は親に家具店を買ってもらって経営していたインテリでブルジョアの男。妻や両親、友人らが皆国を逃げ出すのに自分だけは残る。それは主人公が革命に共鳴したからではなく、彼等と縁を切りたがっていたからだ。つまり、それまでの自分の生き方そのものを否定したいのだろう。彼の過去が徐々に明らかになるが、若い頃ユダヤ人の彼女とニューヨークで作家として暮らすことが出来なかったのが彼の挫折というわけだ。原因は安定を求める自分自身の優柔不断のせいなのだから、それはなるほど、納得できない人生だ。
自分の生き方に嫌悪感を抱いている一方、海外旅行を頻繁に出来るようなブルジョアの身分で、自国を「低開発」と嘲るように語る。妻を自分の思い通りにしつけられなかったからと言って、手ひどくいびって傷つけ別れる。そんな嫌悪感を抱かせる主人公にしたのは無論意図的なものだろう。では革命で彼も変わることができるのだろうか?以前からの希望だった作家になるチャンスなのだから、マンションの家賃で遊んで暮らせる身分になって、部屋の中で思う存分書けば良いのだ。だが書けない。だから街を歩く。けれど帰宅してからも書けない。人恋しくて、若い女の子をひっかける。やっぱりつまらない女だったと気付いて捨てる。やれやれだ。結局、彼は自分に何を望んでいるのだろう?
革命で何もかも変わる!と信じていたら、そうでもなかったというような話なのか。あるいは革命に身を投じるには、旧来のブルジョア的価値観から脱却できない優柔不断のインテリを糾弾する話なのか。そんなに単純に割り切れるような小説ではないから、傑作と言われるのだろうと思う。
ラストの方、主人公がキューバ危機についてアメリカのラジオを聞いているシーン、一般市民の代表であるノエミは英語がわからないから、彼の恐怖が伝わらない。主人公が海岸でミサイルを運ぶトラックをみかける場面と合わせ、作家が書きたかったのはこの「核の恐怖」だったのか。インテリで臆病で優柔不断で海外旅行経験があって多少はグローバルな視点をもつ主人公が、心底おびえているところを見せたかったのかもしれないなと感じた。
「低開発の記憶」は映画を先に見た。映画が先が良いか原作が先が良いか、どちらかは比較できないが、映画で今ひとつわかりづらかったところが明確になってよかった。例えば、デスノエス本人が出てくる文学討論会がとても唐突に感じられたが、「僕」とエディの関係が(映画の中でも少し触れられていたが)詳しく説明されている。また、エレーナとの裁判があっさりとセルヒオ側の勝利に終わった点で腑に落ちないところがあったが、「なるほど」という理由が小説には書かれている。そういった細かな点で映画を補完するような意味を小説が果たしている。これは小説が先だと、映画に別の意味が加わるのだろう。
「いやしがたい記憶」として小田実が1972年に翻訳したものを何故2011年になって野谷先生が訳したのかの謎は2003年に"Memorias del subdesarrollo" の新しい版が出たからだという事情を訳者解説で知った。追加された3つの短編は主人公がかつて書いた作品という設定だ。映画がきっかけにならなければ読めなかった作品だが、これもまたタイミングというか出会いなんだろうなと思う。装丁はカッコイイ。
■書誌事項
著者:エドムンド・デスノエス著, 野谷文昭訳
書誌事項:白水社 2011.6.5 196p ISBN978-4-560-08132-7
原題:Memorias del subdesarrollo: Edmund Desnoes , 1965