屍集めのフンタ/フアン・カルロス・オネッティ
舞台となるサンタ・マリアは架空の街らしいが、ウルグアイの中規模地方都市くらいのイメージで考えていた。売春宿の主人や売春婦、彼らと敵対する神父や富裕階級の人々、そしてその後継者たる若者たちの姿を描いた群像劇のようだが、何か違う。何がおかしいっていろいろとおかしいのだが、群像劇ならもっとなんというか様々な人の思惑が入り乱れた派手な話になりそうな気がするのに、すごく地味だ。もちろん、思惑は確かに入り乱れてはいるのだが。
フンタがタイトルにもあるので主人公のはずと思っていたら、最初は老医師のディアス・グレイの視点から入って来ているので、彼が話を進めるのかと思っていたら、突然ホルヘという「僕」による一人称語りが始まって、どこの視点から話を読めばいいのか最初は少々混乱する。フンタは売春宿の主人だが、そのうさんくささに反して、売春宿を建設する許可が下りるまで出版社の経理をやっている。そして許可が下りると、今度は売春宿をともに経営するパートナーを首都まで戻って必死で探したりと、意外にマジメだったり、情けなかったりする。
そして問題は「僕」。やはり主役はこちらのようで、「僕」の心の動きが物語の中心だ。街の良家の子弟の一人で兄が新婚の妻を残して急死し、その妻が狂気に陥っていて、義理の弟である「僕」と関係をもつ。義理の姉である彼女の弟もまた絡んで来る。この女性が狂っているのかどうか、そしてまだ15~16歳くらいの「僕」が何故こんな狂った状況に身を投じているのか、そこから何を見ているのか、「僕」は本当に正気なのか。それらの点を考えながら、彼の心理をじっくり追うと、なかなか味わい深い作品だなと思った。
そして、匿名の中傷ビラ。これはガルシア=マルケスの「悪い時」にも登場するが、先だって読んだ「百年の孤独を歩く」にはコロンビアでは現実に今でも行われていると書かれていた。本書の舞台はウルグアイと思われるが、似たような形なのだろう。市井の人々が直接声をあげるメディアのない時代、このビラが今で言うインターネットの掲示板替わりをしていたのだろうか。そして街の倫理に関するスポークスマンは教会の神父。神父を中心とした反売春宿の「紳士同盟」のような組織やビラを作る女学校の少女たちの物語は街の潔癖さよりは、街の過去に対するうしろめたさといった感情や街全体を覆う閉塞感を表現していて、とても重苦しく感じる。地味に暗い話だが、どんどん読める感じではある。
本作はバルガス=リョサの「緑の家」とロムロ・ガジェゴス賞を争ったというが、その派手さにはそりゃ負けるわと思う。著者本人が向こうは「オーケストラつきだから」と言うのも納得。でも、その地味さが読みやすさでもあると感じた。
それにしても相変わらずこの「セルバンテス賞コレクション」の装丁はすごい。「ラテンアメリカ文学選集」の装丁は地味だが素敵だった。あれが地味すぎたから今度は派手にしようと思ったのか、派手の基準を間違えたのか。そして相変わらずあとがきは「マリオ・バルガス=ジョサ」だし。イヤ別にどちらが正しいかなんて興味はまったくないけれど、検索のことを考えたら、統一した方が良いのではと以前からずっと思っていたが、こういう人名表記なんていうのは翻訳者はそれぞれのこだわりがあるので、編集の仕事ではないかなどと考えていたら、こんな文章を読んだ。
そうか。現代企画室って常駐スタッフ2人しかいないのか。こんな助成金がないと出せないような本(初版1200部)、そんな構っていられないよね。造本にも装丁にもお金かけられないよね。細かいところチェックしているような暇はないよね。出してもらえるだけありがたいと思わないとね。とも思うけど、やはり納得はいかない。本の内容が意外と良いだけにもったいないことをしているなと思った。
■書誌事項
著者:フアン・カルロス・オネッティ著,寺尾隆吉訳
書誌事項:現代企画室 2011.1.31 328p ISBN978-4-7738-1101-9
原題:Juntacadáveres: Juan Carlos Onetti, 1965