低開発の記憶―メモリアス
1961年のキューバ革命直後のキューバ国内の姿をドキュメンタリー映像と合わせて映し出した映画。ダンスで浮かれる人々の中に突然響き渡る銃声。しかし音楽はやまず、死体を避けて踊り続ける群衆。混乱の中、誰かが死体を運び去る...という衝撃的なオープニング。途中、生々しい死体と華やかなハバナのクラブシーンが登場して、実に混乱する。
キューバは謎だ。この映画は1968年にキューバ国内で製作されている。こんなブルジョアのモラトリアムで退廃的でどっちつかずの無職有産階級のだらっとした姿をよく撮影したなと思う。「だからブルジョアはダメ」といった短絡的な宣伝映画ではなく、レベルの高い作品に仕上がっている。
革命後も家賃収入で暮らす主人公が国内で存在し得ていることも不思議だ。いずれ彼のマンションも国有化を免れ得ないことを暗示する不動産調査も登場するが、すぐには没収されない。裁判でもブルジョア×人民であれば、たとえ冤罪でも当然人民が勝つものと思って見ていると、ブルジョアの主人公の主張通りとなり無罪となる。キューバ革命とは、それまでの教条主義的な革命と異なることを訴えているのだろうか。そんなふうにも思えない。キューバ革命はやはり謎だ。
主人公の「西欧人をめざす」という指向性は革命前のインテリらしい。革命に共鳴できず、祖国を「低開発」とあざけるわりには出て行こうとしない。わずらわしい家族から逃れるためだけか、現実逃避か、現実を直視できないのか。どうもそうでもないらしい。目の前のキューバを見ていたかった、というのが本当のところのように見える。
それにしても人生に対しても社会に対してもどこか投げやりなところが見える主人公。やることと言えば女の子をひっかけて自分の好みに仕上げようとするだけ。そんな態度にはやはり理由があることがわかる。若い頃に記憶を遡っていくと、彼も人生に挫折し、絶望している。その優柔不断さ故に。
映画はモノクロでリアリスティックだが、コラージュや幻想的なシーンもある。少しヒステリックな音楽もで印象的で、確かに傑作だ。まもなく刊行される原作が楽しみだが、旧訳があったらしい(「いやし難い記憶」小田実訳、筑摩書房 1972)。映画の字幕を担当された野谷先生が、旧訳のあまりのひどさに、新たな翻訳に取り組まれたのではないかと勝手な想像をする。
キューバは長らく謎だった。「ブエナビスタ・ソシアルクラブ」では過去を懐かしむ哀しそうな芸術家たちと、貧しいけれど明るい普通の人々が不思議な調和を見せていた。レイナルド・アレナスによると芸術家やゲイにとっては地獄らしい。「苺とチョコレート」では悲しいこともあるけれど、悪くないかもと思わせる。ヤマザキマリによると地元の人でもサトウキビ畑で働くのは苛酷で嫌うらしい。ゲバラのせいで医療が発達し、カストロのせいで野球は強く、かつて世界に誇る音楽家たちを排出したキューバ。アメリカによる経済封鎖が未だに解かれていない...。私の頭の中は混乱状態。「永遠のハバナ」とか見れば少し落ち着くかな。
ラテン・アメリカの映画については、あまり多くは見ていないが、原作から影響されて見ることがたまにある。「苺とチョコレート」もそのパターン。その監督の若い頃の作品で、原作が刊行されるのをきっかけに見てみようかと思った。どちらが先がいいのかなーと思ってつぶやいたら@cafecriollo 先生に「どちらが先でもOKだけど、映画は必見」とプッシュしていただいたので、何はともあれDVD購入。震災後、ずっと本も映画も受け付けなかったので、人に勧めてもらって無理矢理にでも見れば、きっと動き出せる。そう思ったが、やはり見てよかった。何かきっかけになるような気がする。
放射能が漏れ出している小さな島国から逃げ出さないでいる自分と少し重なるのが怖い。
■公式サイト
■監督:トマス・グティエレス・アレア
■脚本:トマス・グティエレス・アレア/エドムンド・デスノエス
■原作:エドムンド・デスノエス
■音楽:レオ・ブロウェル
■出演:セルヒオ・コリエッリ/デイジー・グラナドス/エスリンダ・ヌニュス/オマール・ヴァルデス/レネ・デ・ラ・クルス