ハーパー・リーガン
地味だがヒリヒリした感じの芝居で、実際にはハードな台詞も多々ありの、イギリスを舞台にした現代劇。主人公の感じる閉塞感と、なんとかして打開しようとする必死さに、観ている方も押しつぶされそうな感じがする。四角い舞台装置、壁のようにせり出してくるのはよくあるが、場面転換に四面使ったのはわかりやすくてよかったと思う。
小林聡美のような"親近感"が売りの役者に、それも5年も舞台に立っていないような役者にわざわざこんな役をやらせたのはなぜだろう?あの親近感を逆手にとって、中年の危機は誰にもやって来るということを言いたかったのか?それはぜんぜん違う気がする。いつもの"自然な演技"が使えないから舞台に立つと浮くかと思ったが、そういうことはなかった。映画やテレビで見る"きっぱりとした物言い"がいつもいいなと思っていたが、それはそのまま舞台に生かされていた。
舞台となったアックスブリッジはロンドンの北西の端、ヒースロー空港の足下で、運河が多い。と聞くと自然とモノレールから向かったときの羽田空港周辺を思い出す。あそこも空港で働く人が多く住んでいる。工業地帯と運河の不思議なコラボレーション。だが、そういう連想はせっかくイギリスの舞台を観ているので、余計なことだろう。徒歩でヒースロー空港に行き、マンチェスターまでわずか1時間だ。
最初、父親が危篤だから会社を休みたいと言って上司に断られる、という導入部を読んだとき、いったいいつの時代の話だ?と思ったら、iPodやインターネットが出てくるので現代だと気づき、後からパンフを読んで2006年の設定と知った。今どき親が危篤で1~2日も休めない、休んだらクビだ、なんて先進国ではあり得ないだろうと思う。それとも現代イギリスで普通に起きていることなのか、あるいは彼女が社長に何か弱みを握られているのか。社長とハーパーの会話はまるでかみ合わず、あてこすりや皮肉ばかり言う社長にうんざりしているハーパー。彼女の受けているのストレスがこちらにピリピリと伝わっている。
彼女がどうしてそんなにストレスを受けているのだろう?彼女が家に帰ると、娘が父親に「パパ、スーツは変」と言っている。ああ夫は失業者なのか、彼女が家計を支えているから、こんなに困っているのだとわかる。おそらくロンドン中心部に住んでいた中流階級だった一家が、何らかの原因で引っ越してきたことが次第にわかってくる。3人の家族がひどくよそよそしいからだ。後の方でその「原因」がわかるが、父親の死に目にも会えないというストレスから、彼女は発作的に歩いて空港へ行き、誰にも告げずに飛行機に乗ってしまう。
「彼女は旅に出る」という言葉から私がイメージしたものと彼女の旅はまるで違った。バーで絡まれたり絡んだり、出会い系掲示板で男を呼び出したり。秋の寒々しいイングランドを旅して、見知らぬ人々とのほのぼのとしたふれあいから学び取って家に帰るのかと思っていた(笑)。我ながら、どうしてそんな発想をしたのかと考えたが、W.G.ゼーバルトの作品群が頭の隅に残っていたからかもしれない。
父の死に目に会えなかった彼女が、現状の閉塞感を打破しようともがく旅だ。そんなきれいごとのはずはなかった。信頼・愛情の対象であった家族への不審と不満。仕事やおかれた状況への圧迫感から「あーもうイヤだ!」ともがいたあげく、何らかの結論が出なかったのだろう。だから母親に会いに行った。結果、憎み続けていた人と信じ続けていた人が逆転し、新しい世界が少しだけでも見えてきたから家に帰ったのだろうか。
ラスト、どっしりと据えてあった四面の舞台装置が上方につり上げられ、その下に緑まぶしい庭が現れる。落ちないかとハラハラしてしまうが、それも演出なのだろう。その庭で土いじりをするハーパーの姿は将来の姿なのか夢なのかと思っていたら、ただ単に帰宅の翌朝だった。そこで彼女はすべてを夫に話し出す。すると夫は将来の家族の姿を語る。この家族はここから何か始まるのだろうか、それとも崩壊するのか。ちょっとわからなかった。
なんだかふと思い立って1週間前にチケットをとって一人で観に行った。もちろん、小林聡美を観に行ったのだけど、映画にしろ芝居にしろ、いろいろと観てきて、なかなか観に行けない状況になって、それでも観続けるのが小林聡美っていうのはどうなのと思うのだが、それだけ「同じ時代に生きている」ことを実感したい人が私の場合ほかにいないのだろう。ジョニー・マーが好きだったのは、私も同じ。「エレンディラ」のとき観た美波があいかわらずきれいで嬉しかった。
ハーパー・リーガン公式サイト
公演:2010年9月4日(土)~2010年9月26日(日)
作:サイモン・スティーヴンス
訳:薛 珠麗
演出:長塚圭史
出演:小林聡美,山崎一,美波,大河内浩,福田転球,間宮祥太朗,木野花
観劇日:2010年9月11日(土)マチネ