最近読んだ本、見た映画・芝居、聞いたCD

2010年9月

2010年9月25日

いちばんここに似合う人/ミランダ・ジュライ

いちばんここに似合う人 ミランダ・ジュライ外国文学の読者の間であまりにも評判が良いので、ついに耐えきれず、読んでしまった。岸本佐和子さんの訳だし、ミランダ・ジュライは映画の評判もいいし、何より本人がとてもキュートだし、おもしろくないはずはない。それでも現代のアメリカ人女性(特に白人)の書く短編小説が好きになったためしがないから躊躇していたのだ。どうしても「共感」を要求してくる部分があって、それが受け付けないのだろうと思う。私はもともと小説に中途半端な共感を求めていないのだ。まるで知らない世界の人たちが何を考えているのかが知りたいのだから、遠ければ遠いほど興味がもてる。

読んだ結果、やはり共感は出来なかったが、一部興味深いものはあったし、多くの人の心には刺さる作品なのだろうなということはわかった。

登場するのは少し変わった孤独な人たちばかり。水のない田舎で老人達に泳ぎを教える若い女性、英国王室の王子のおっかけをする46歳の女性、仲が悪くて子どもにも感心のない両親の子を自分のこのように育てる女性、妄想で友達の妹と恋愛する独身の老人など。この人たちの寂しさに共感できる人と、今現在はあまりお付き合いはしたくないな...と思ってしまう私はあまり感受性が豊かではないのだろう。

「何も必要としない何か」で「パリ、テキサス」の覗き部屋が登場するので、私の頭の中ではアレンがルー・リードになってしまった。この派手なケンカをするレズビアンは幼なじみであるが故に、必然性が高くないレズビアンに見えて、アメリカ人の田舎の引っ込み思案の女の子ならあるかもね、と思ってしまって、私の気持ちには響いてこない。

「モン・プレジール」では行き詰まった夫婦が映画のエキストラによって最後の活路を見い出し、そしてエキストラが終わると夫婦関係も終わる。昔からこういう話がどうにも苦手で、いつも「それがどうしたの?」と思ってしまう。「愛人の髪にラーメンの汁が滴になって止まっていた、それを見たら別れようと思った」(実際に本当にこんな短編小説があった!)みたいな、もともと何かしっくりしてなかったものが、小さなきっかけで別れることになったというタイプの話だ。この女性が二人の仲を活性化する作業に映画のエキストラを選んだところはおもしろいのだが。

一つだけ「2003年のメイク・ラブ」はよかった。これはちょっと心にしみるものがあった。

■著者:ミランダ・ジュライ著,岸本佐和子訳
■書誌事項:新潮社 2010.8.31 ISBN978-4-10-590085-4
■原題:No One Belongs Here More Than You, 2007 : Miranda July
■内容:
「共同パティオ」The Shared Patio
「水泳チーム」The Swim Team
「マジェスティ」Majesty
「階段の男」The Man on the Stairs
「妹」The Sister
「その人」This Person
「ロマンスだった」It Was Romance
「何も必要としない何か」Something That Needs Nothing
「わたしはドアにキスをする」I Kiss a Door
「ラム・キエンの男の子」The Boy from Lam Kien
「2003年のメイク・ラブ」Making Love in 2003
「十の本当のこと」Ten True Things
「動き」The Moves
「モン・プレジール」Mon Plaisir
「あざ」Birthmark
「子供にお話を聞かせる方法」How to tell Stories to Children

2010年9月14日

ハーパー・リーガン

ハーパー・リーガンネタバレです。

地味だがヒリヒリした感じの芝居で、実際にはハードな台詞も多々ありの、イギリスを舞台にした現代劇。主人公の感じる閉塞感と、なんとかして打開しようとする必死さに、観ている方も押しつぶされそうな感じがする。四角い舞台装置、壁のようにせり出してくるのはよくあるが、場面転換に四面使ったのはわかりやすくてよかったと思う。

小林聡美のような"親近感"が売りの役者に、それも5年も舞台に立っていないような役者にわざわざこんな役をやらせたのはなぜだろう?あの親近感を逆手にとって、中年の危機は誰にもやって来るということを言いたかったのか?それはぜんぜん違う気がする。いつもの"自然な演技"が使えないから舞台に立つと浮くかと思ったが、そういうことはなかった。映画やテレビで見る"きっぱりとした物言い"がいつもいいなと思っていたが、それはそのまま舞台に生かされていた。

舞台となったアックスブリッジはロンドンの北西の端、ヒースロー空港の足下で、運河が多い。と聞くと自然とモノレールから向かったときの羽田空港周辺を思い出す。あそこも空港で働く人が多く住んでいる。工業地帯と運河の不思議なコラボレーション。だが、そういう連想はせっかくイギリスの舞台を観ているので、余計なことだろう。徒歩でヒースロー空港に行き、マンチェスターまでわずか1時間だ。

最初、父親が危篤だから会社を休みたいと言って上司に断られる、という導入部を読んだとき、いったいいつの時代の話だ?と思ったら、iPodやインターネットが出てくるので現代だと気づき、後からパンフを読んで2006年の設定と知った。今どき親が危篤で1~2日も休めない、休んだらクビだ、なんて先進国ではあり得ないだろうと思う。それとも現代イギリスで普通に起きていることなのか、あるいは彼女が社長に何か弱みを握られているのか。社長とハーパーの会話はまるでかみ合わず、あてこすりや皮肉ばかり言う社長にうんざりしているハーパー。彼女の受けているのストレスがこちらにピリピリと伝わっている。

彼女がどうしてそんなにストレスを受けているのだろう?彼女が家に帰ると、娘が父親に「パパ、スーツは変」と言っている。ああ夫は失業者なのか、彼女が家計を支えているから、こんなに困っているのだとわかる。おそらくロンドン中心部に住んでいた中流階級だった一家が、何らかの原因で引っ越してきたことが次第にわかってくる。3人の家族がひどくよそよそしいからだ。後の方でその「原因」がわかるが、父親の死に目にも会えないというストレスから、彼女は発作的に歩いて空港へ行き、誰にも告げずに飛行機に乗ってしまう。

「彼女は旅に出る」という言葉から私がイメージしたものと彼女の旅はまるで違った。バーで絡まれたり絡んだり、出会い系掲示板で男を呼び出したり。秋の寒々しいイングランドを旅して、見知らぬ人々とのほのぼのとしたふれあいから学び取って家に帰るのかと思っていた(笑)。我ながら、どうしてそんな発想をしたのかと考えたが、W.G.ゼーバルトの作品群が頭の隅に残っていたからかもしれない。

父の死に目に会えなかった彼女が、現状の閉塞感を打破しようともがく旅だ。そんなきれいごとのはずはなかった。信頼・愛情の対象であった家族への不審と不満。仕事やおかれた状況への圧迫感から「あーもうイヤだ!」ともがいたあげく、何らかの結論が出なかったのだろう。だから母親に会いに行った。結果、憎み続けていた人と信じ続けていた人が逆転し、新しい世界が少しだけでも見えてきたから家に帰ったのだろうか。

ラスト、どっしりと据えてあった四面の舞台装置が上方につり上げられ、その下に緑まぶしい庭が現れる。落ちないかとハラハラしてしまうが、それも演出なのだろう。その庭で土いじりをするハーパーの姿は将来の姿なのか夢なのかと思っていたら、ただ単に帰宅の翌朝だった。そこで彼女はすべてを夫に話し出す。すると夫は将来の家族の姿を語る。この家族はここから何か始まるのだろうか、それとも崩壊するのか。ちょっとわからなかった。

なんだかふと思い立って1週間前にチケットをとって一人で観に行った。もちろん、小林聡美を観に行ったのだけど、映画にしろ芝居にしろ、いろいろと観てきて、なかなか観に行けない状況になって、それでも観続けるのが小林聡美っていうのはどうなのと思うのだが、それだけ「同じ時代に生きている」ことを実感したい人が私の場合ほかにいないのだろう。ジョニー・マーが好きだったのは、私も同じ。「エレンディラ」のとき観た美波があいかわらずきれいで嬉しかった。

ハーパー・リーガン公式サイト
公演:2010年9月4日(土)~2010年9月26日(日)
作:サイモン・スティーヴンス
訳:薛 珠麗
演出:長塚圭史
出演:小林聡美,山崎一,美波,大河内浩,福田転球,間宮祥太朗,木野花
観劇日:2010年9月11日(土)マチネ

2010年9月 9日

島暮らしの記録/トーベ・ヤンソン

島暮らしの記録せっかくトーベ・ヤンソンの「フェアプレイ」を読んだのだから、クルーヴハルにまつわるエッセイを読んでみようと思った。

30年間もの島暮らしをするからには、それだけの土壌があるのだと知った。さすが彫刻家の父と画家の母の間に産まれた子だけあって、子供の頃から夏は「島」というのが定番だったようだ。

プロの助けは借りたが、自分たちで作った小屋だったということを知った。もう結構売れっ子だったと思うのだが、ヨーロッパ人というのは意外となんでも自分で作る。どんな貧乏でもサウナを自宅に作るのがフィンランド人だそうだ。サウナは日本人でいうところの風呂なので、それはなんとなく理解できる。

伝記には1965年~1995年頃までトーベはここにいたとある。1964年秋から作り始め、雪が降る頃に一度停止、翌年春からまた再開して、夏には住んでいた。ムーミンが書かれたのは1945年~1970年なので、「ここでムーミンが産み出されました」というのは嘘ではないが、かなり違う気はする。

さて、長い待機が始まった。わたしは孤立とは似ても似つかぬ、新手の隠遁にはまりこむ。
だれともかかわらず、部外者を決めこみ、なんにしろ良心の呵責はいっさい感じない。

トーベとトゥーリッキとトーベの母親のハムの3人の女性芸術家がそれぞれ自分の芸術に向かい合う。諍いがないわけではないが、それぞれの領分をそれなりに守って暮らしていたのだろうと想像する。だって、あんな狭い小屋の中で...と思ったら、ちゃんと外に仕事場を作っている人もいたようだ。

石と水平線ばかりで暇をもて余さないか、自然の緑が恋しくならないかと、
島を訪れる客たちに訊かれて、ハムは驚きを禁じえない。

海の近くに暮らしていると思うのだが、海は季節によって、時間によって、天候によって、すごく顔を変える。飽きることはない。

静寂がないと、孤立していないと、芸術は生み出せないのだろうなと思う。でも気の置けない友人はそばにいて欲しい。

ところで、例のドキュメンタリーでも言ってたが、「クルーブハル島」という言い方は変だ。「クルーブハル」もしくは「クルーブ島」だろう、とか細かいことを思ったりした。

■著者:トーベ・ヤンソン著,冨原眞弓訳
■書誌事項:筑摩書房 1999.7.25 ISBN4-480-83705-1
■原題:Anteckningar från en ö , Tove Jansson

2010年9月 8日

トヨザキ社長の提案についてうなずきまくりです

白水社のサイトに載っている豊﨑由美「全国3000人の海外文学ファンを代表して トヨザキ社長が提案!"ガイブン仲間"を増やすには?」を読んだ。あまりに的を得ていたので、ブログに書いてしまう。

こんなこと書くとまたいらない敵を作ってしまいそうですけど、そこいらの一流半程度の国内小説より、世界文学のほうが比べものにならないくらい面白いのに。日本の小説に三百円か五百円程度上乗せするだけで、比べものにならないくらいのレベルの面白さが手に入るのに。そう思ってましたし、今もその考えは変わらないんであります。

私も別に日本の作家が全部くだらないとか言う気はない。読んでないし、わからない。角田光代とか、長島有とか、話題になったのをたまーに読んで、いいね!とか思う。けど、この「本をコストパフォーマンスで価値を決める」という考え方がすごく納得。というか、実は私は今でもそうだ。高校生の頃、わずかなお小遣いで本を買っていた。図書館で借りてもいいんだけど、やっぱり手元においておきたい派だったから、すごくよく考えてから本を選んでいた。で、ガイブンは外れが少ないし、中身が濃いから読むのが大変で、えらいおもしろくて、コストパフォーマンスがよかった。そのまま大人になっても、それを引きずっていた。

「海外の小説は苦手」という友人知人の皆さんにその理由をお訊きしてまいりました。で、圧倒的に多いのが「名前が覚えられない」。

筒井康隆の「短篇小説講義」だったか「本の森の狩人」だったかで、外国文学で登場人物が大勢いたら書き出しながら読め!と書いてあったので、こういうことしていいんだ!と思って、それ以来、わからなくなったらやるようにしている。憶えられない方が悪い気がしていたのが吹っ切れた。筒井康隆でさえやるんだから、私がやってもいいよね、と。

で、次に多かった答が「知らないところが舞台になってるから、雰囲気がよくわからないし共感もできない」。かなり気持ちが滅入ってまいりました。わかってることを「うん、わたし、わかる」って再確認する読書の、どこが愉しいんだろう。(中略)世界は広くて、意見も感覚も常識の持ちようも生活様式もまったく違う人たちが、でも、自分と同じようにかけがえのない日常を送ってるわけで、海外文学を読むとそれが心底実感できるんですよ。

私は知らないことを知りたいから本を読むんです。マイアミに住むキューバ系アメリカ人はこんなこと考えるんだ~!とか思うと楽しい。知らない場所だからこそ、いろいろ想像して楽しい。

日本の文学だと、話の流れとか、かなりの割合でもう予想できちゃうんです。場所も人もわかりやすいから。場所も人も全然知らないからこそ、予想も出来ない展開が現れて、おもしろいのになぁ。違う世界の予想もつかない物語にのめり込むからこそ、読書は楽しいのだけど。

目次のあとに、登場人物一覧をつける!

これね、「野生の探偵たち」のとき、別途プリントアウトしてくださいってPDFがウェブにおいてあって、なぜ本体に印刷されていないのか、あるいは差し込みされていないのか、すごく不思議でした。翻訳者がいやがるのかなぁ。「売れない売れないという前にやることやれ!」って、トヨザキ社長って時々言葉はキツイけど、すごくまっとうなことを言う方ですよね。編集者の方々はやった方が良いと思います。3000人って思うからこそ、「私が買わなくては!」「私が読まなくては!」と思っているのも事実ですが、こちらも先細りはイヤなんです。がんばってください。私も読みますから!

2010年9月 3日

池澤夏樹個人編集 世界文学全集 第3集 短篇コレクションI

池澤夏樹個人編集 世界文学全集 第3集 短篇コレクションI河出書房の世界文学全集、南米で初訳だけという限定で買おうとしたら結局「楽園への道」だけになってしまった。初訳はないが「南部高速道路」をトップに持って来たというセンスの良さと、ルルフォを欠かさなかった正しさを評価して、「短篇コレクションI」を読んでみた。

フリオ・コルタサル「南部高速道路」
この作品、「悪魔の涎・追い求める男」ではなく、『ユリイカ』1983年7月号の「ラテンアメリカ文学」で初めて読んだ。そのとき作りたいと思っていたものを、今回良い機会なので、作ってみた。

南部高速道路

クルマの配置図なのである。1列12台だが、外側は省略した。プジョー404を中心にしているが、前のシムカとタウナスの位置関係がわからない。読むと、両方ともプジョー404の前のように見える。また今ひとつ確認できないのが、IDシトロエンとボリューだ。誰か、これが正しいというのを教えて欲しい。
この話はいわば都会の遭難物語なのである。8月からたぶん11月か12月頃にかけてのパリに向かう道路が舞台。片側6車線の上下線を合わせ12車線全部を上りにしているから上記の図は右にあと3台、左にあと2台いるはず。食料や水の確保、医療や看護の相互扶助等からリーダーが自然発生的に生まれ、共同体が創設される。その中では諍いも起こるし、他のグループとの駆け引きも発生するし、中には失踪する者あり、自殺する者あり、病死する者あり、妊娠する者ありという、不条理というか(来るはずのものを待っているからゴドー待ち?)ファンタジイというか、少し変わった物語が進行する。最後に渋滞が突然解消され、共同体は崩壊する。日常の中での遭難というテーマがおもしろくて、この話はよく覚えている。

オクタビオ・パス「波との生活」
この作品には「波と暮らして」という訳もある。どちらの方が正しいかなんて、私にはわからない。この先二人でどうやって逃げるのだろう、わくわく、と思わせて、一瞬で捕まって1年経ってしまうという展開は時間の使い方が意表をつく。

フアン・ルルフォ「タルパ」も昔のメキシコの聖人信仰の強さなど知らないとわからないかもしれない。それにしても暗い...底抜けに暗いけど、ルルフォ短篇の完成度の高さ、流れの美しさには毎回感動を覚える。

張愛玲「色、戒」
戦前から戦時中初期の中国のスパイものって、こういう雰囲気にならざるを得ないのか。衣装とかきらびやかさは「上海バンスキング」?二人で「相手は自分を愛している」と思っているところがおもしろい。

ユースフ・イドリース「肉の家」
イスラームの禁欲主義から、こんなえぐい話が出来てしまう。日本も戦前の田舎で、封鎖的で人の目がうるさそうなところほど、夜這い文化があったりするからなぁ。でもこの話、目の見えない人をなめてるでしょう。こんなの、絶対わかると思うよ。

P.K.ディック「小さな黒い箱」
黒い箱ってiPhoneの黒ですか?なわけない。テレビの前においた取っ手のついた黒い箱で宇宙人と交流できるSF。禅ブームだったアメリカの頃を思えば古くさいと感じられるし、この黒い箱をガジェットの一つと思えば新鮮に感じられる。

チヌア・アチェベ「呪い卵」
短いながら、天然痘のせいで人気のなくなった市場の恐ろしい空気がじわっと感じられる作品。キーワード一つ一つが私の思うアフリカ文学らしさ満載だ。「キティクパ=天然痘」「お飾りをもらう=天然痘にかかる」「夜の仮面」「鈍いの卵」等。ナイジェリアというと、どうしても知人のアフリカ人のビジネスマンを思い浮かべてしまうのだが、大きく外れてはいないのかもしれない。

金達寿「朴達の裁判」
なるほど、プロレタリア文学にユーモアは少ない。みんなきまじめすぎる。こんな転向してばかりの主人公は通常の左翼文学では許されないだろう。それにしても、100ページ近い。これは短篇か?。

ジョン・バース「夜の海の旅」
「泳ぐ」を「生きる」と読み替えて読むと、すんなり読めてしまう。

ドナルド・バーセルミ「ジョーカー最大の勝利」
アメコミが嫌いなので、全然わかりません。

トニ・モリスン「レシタティフ─叙唱」
白人と黒人の女の子が8歳のときに児童養護施設で知り合って、その後大人になって再会し...なんていう出だしだったので、ベタベタな友情ものを一瞬想像したが、そんなことはまるでなかった。意図的にどちらが黒人でどちらが白人かわからないように描かれていて、あえて混乱させようと、人種的アイデンティティをわからなくさせてから読ませようとしている。私は「ロバータは黒人、トワイラは白人」と根拠なく決めて読んでいた。そうでもしないと居心地悪くて読み進められなかったからだ。この紀要の「人種をこえる娘たち」が詳しい。

リチャード・ブローティガン「サン・フランシスコYMCA讃歌」
よくわかりませんが、おもしろいかな。

ガッサーン・カナファーニー「ラムレの証言」
人にやられてイヤだったことは人にするのをやめましょう...という民族的記憶というのは存在し得ないのだろうか。老人と少年の視線が交錯したそのとき、引き継がれた何かがあったのだということが、じわっとわかる。哀しい記憶が引き継がれてしまったのだろう。

アリステア・マクラウド「冬の犬」
雪と氷に閉ざされた冬の厳しさとゴールデンリトリバーの黄金色の毛のふさふさ感がなんともいえずマッチしていて、カナダらしいと言えばそうなのだが、何とも感じの良い作品だ。カナダっていうとこういうイメージだが、日本の東北っぽさがないのは、海のせいか、木の高さのせいか?

レイモンド・カーヴァー「ささやかだけど、役にたつこと」
パン屋がなぜ「こんなふう」になってしまったのか。空虚な人生を送って行くことが、どれほどの対価を支払わなくてはならないことになるのか、というお話かなと。彼は少しでも取り戻すように、若い夫婦と夜を徹して話しているのだろう。

マーガレット・アトウッド「ダンシング・ガールズ」
「緑したたる未来の楽園はあらかじめ失われている」それでも夢を見てもいいでしょう?アラブの民族衣装を着た彼ら、みんなが一緒にいるところを。いい話だと思う。さすが岸本佐和子訳。ジャンル的に積極的には読まないが、文芸誌やアンソロジーで見かける岸本さんの訳された作品はおおむねおもしろい。
変な下宿屋で息が詰まるお話かと思いきや、なかなか愉快。それにしてもどうして狭量な中年女性の子供は、頭の悪い粗野な子供になるんだろうな。

高行健「母」
懺悔の話なのだけれど、「僕」というのが辛くなって、「彼」と言ってしまって混在しているところが、すごくいい。中国人は親を、子を大切にするものだと思っていたのだけど、文革とか天安門とか、いろいろあったからかな。こういう物語が出てくるのは。

ガーダ・アル=サンマーン「猫の首を刎ねる」
比較的最近見たテレビでイスラム圏から日本に留学している若い女性が「自分の国では貧乏な男とぶさいくな女は一生結婚できない。」と言い切っていた。一夫多妻制だから財産のある男のところに美人が集中し、子供もそこでたくさん産まれるから、それでいいらしい。と語る留学生本人は美人だったけど、それがイヤで留学してるんだろうに。テレビで顔を出すなんて、ナディーンのバンジージャンプ並にすごいことでは?それにしてもおばさんの花嫁の口上はすごい。奴隷どころか、二次元の女の子以上ですよ、みなさん。

目取真俊「面影と連れて」
沖縄の話というと、戦前戦時中の話が多いのだが、これは戦後(1955)~海洋博(1975)の頃の話。うっすらと記憶に残っている。主人公の女性は逆子で産まれてきて、少し知的な遅れがあって、親からは見捨てられ、小学校でいじめにあって登校拒否になる。悲惨と言えばそうなのだけど、不思議とそんな感じはしない。

■書誌事項:河出書房新社 2010.7.1 ISBN978-4-309-70969-7
■内容:
「南部高速道路」フリオ・コルタサル著,木村榮一訳 Julio Cortázar : La autopista del sur, 1966 (「悪魔の涎・追い求める男」1992)アルゼンチン
「波との生活」オクタビオ・パス著,野谷文昭訳 Octavio Paz : Mi vida con la ola (「鷲か太陽か?」2002)メキシコ
「白痴が先」バーナード・マラマッド著,柴田元幸訳(「喋る馬」2009)アメリカ合衆国
「タルパ」フアン・ルルフォ著,杉山晃訳 Juan Rulfo : Talpa, 1950 (「燃える平原」1990)
「色、戒」張愛玲著,垂水千恵訳(新訳)上海
「肉の家」ユースフ・イドリース著,奴田原睦明訳(「集英社ギャラリー 世界の文学 20 中国・アジア・アフリカ」1991)エジプト
「小さな黒い箱」P.K.ディック著,浅倉久志訳(「ゴールデン・マン」1992)アメリカ合衆国
「呪い卵」チヌア・アチェベ著,管敬次郎訳(新訳)ナイジェリア
「朴達の裁判」金達寿著(「金達寿小説全集6」1980)在日朝鮮
「夜の海の旅」ジョン・バース著,志村正雄訳(「アメリカ幻想小説傑作集」1985)アメリカ合衆国
「ジョーカー最大の勝利」ドナルド・バーセルミ著,志村正雄訳(「帰れ、カリガリ博士」1980)アメリカ合衆国
「レシタティフ─叙唱」トニ・モリスン著,篠森ゆりこ訳(初訳)アメリカ合衆国
「サン・フランシスコYMCA讃歌」リチャード・ブローティガン著,藤本和子訳(「芝生の復讐」1976)アメリカ合衆国
「ラムレの証言」ガッサーン・カナファーニー著,岡真理訳(『前夜 2005年春号』2005)パレスチナ
「冬の犬」アリステア・マクラウド著,中野恵津子訳(「冬の犬」2004)カナダ
「ささやかだけど、役にたつこと」レイモンド・カーヴァー著,村上春樹訳(「大聖堂」2007)アメリカ合衆国
「ダンシング・ガールズ」マーガレット・アトウッド著,岸本佐和子訳(「ダンシング・ガールズ」1989)カナダ
「母」高行健著,飯塚容訳(「母」2005)中国
「猫の首を刎ねる」ガーダ・アル=サンマーン著,岡真理訳(初訳)シリア
「面影と連れて」目取真俊著(「魂込め」1999)沖縄