嘘から出たまこと
セルバンテス賞コレクションの第2弾はマリオ・バルガス=リョサの小説論。35作品に対する評論が収められている。20世紀の世界文学における有名な小説ばかりで、すべて日本語訳が出ている。私は半数も読んだことはないが、さすがに、タイトルすら知らないというものはなかった。
作家であるのみならず、文学評論においても評価の高いリョサの書く小説論は多くの示唆に富んでおり、フィクションの本質をよくついている。
人間は自分の運命に満足できないもので(中略)、今と違う生活に憧れる。(中略)すなわち、誰もが求めてやまぬ理想の生活を提供するために書かれ、読まれるのがフィクションである。 (中略)... (小説の真実は)作品自体の説得力であり、架空の出来事の伝達能力であり、その魔術の巧みさである。良い小説はすべて真実を歌え、悪い小説はすべて嘘をつく。小説において、「真実を伝える」とは読者に幻想を生きさせることであり、「嘘をつく」とはその手品をやり損なうことである。
あまりにも多くの作品で鋭い言説が含まれているため、全部を取り上げることは出来ないが、一番印象に残った言葉は、ジョン・スタインベックの「エデンの東」を取り上げた、その冒頭だ。
現代文学の興味深い特徴の一つは、しばしば駄作の方が傑作よりも楽しいことだろう。小説の世紀といわれた十九世紀にはこんなことは起こらなかった。トルストイやメルヴィル、スタンダールやフロベールを読めば、情熱をかき立てる歴史的・感情的冒険と大胆な文学的実験の両方に立ち会うことができた。
20世紀の文学においてはコンラッドやヘンリージェイムス、プルースト、ジョイスなどの作品を読むのは知的な作業としては楽しいが、古典的な物語の楽しみ方とは異なる行為になってしまう。つまり、物語としてのわくわく感、おもしろさに欠けてしまう。そしてスタインベックの「エデンの東」は文学としてはメチャクチャなのだが、読むと面白くてしょうがない、といった話になっていく。物語を楽しんでいる自分に腹が立つ、とまで言っている。
だからこそリョサは文学的実験と物語の楽しさと、両方合わせ持った19世紀のような文学作品を20世紀、あるいは21世紀の現在に再現しようと奮闘しているようにも見える。この人はエッセイもいいが、やはり長編小説を読みたい。
川場康成の「眠れる美女」が入っているが、ガルシア=マルケスがこの作品をきっかけに「わが娼婦たちの思い出」を書いたという話を思い出した。南米で評価の高い作品なのだなと、あらためて思う。
せっかくだから読んだことのないもので読みたいなと思ったものをピックアップしたいのだが、「アフリカの日々」以外知らなかったアイザック・ディネーセンの作品くらいなものだった。ここにも2作品入ってるし、キューバにもいたのに、私はどうしてもヘミングウェイを読む気にならない。大昔に「キリマンジャロの雪」を読んでからずっとそうだ。多分、男のロマンティシズムとかが大嫌いだからだと思う。加えてマザコンだし。これはもう立派な偏見だし、単なる毛嫌いだと自覚しているが、直りそうもない。
ところで、スペインの賞だから、スペインだとLlは「ジョ」だから、ということは理解できるが、ペルーの人だし「リョ」でもいいんじゃないかと。それに何より検索の便宜を考えたら、日本では多い方の表記に合わせた方が読者のためだと思うのだが。確かに、初版の部数が1200部だから、読者なんかどうでもいいということなのんだろうか。そしてまた、相変わらず装丁が安っぽい。こんなマイナーな文芸書、助成金がなかったら出せないことはわかっている。読めただけありがたいと思えということか。なんだかこのシリーズ、読む気がだんだんなくなって来るな。中身は素晴らしいし、訳者に文句はないが、版元の姿勢が、せっかくなのになと思ってしまう。
■著者:マリオ・バルガス=ジョサ著,寺尾隆吉訳
■書誌事項:現代企画室 2010.2.15 390p ISBN4-7738-1002-5/ISBN978-4-7738-1002-8
■原題:Le verdad de las mentrias : Mario Vargas Llosa, 1990,2002
■目次
序文
嘘から出たまこと
人間の根源 ジョゼフ・コンラッド『闇の奥』(1902)
深淵からの呼びかけ トーマス・マン『ヴェニスに死す』(1912)○
ジョイスのダブリン ジェイムス・ジョイス『ダブリンの市民』(1914)○
群衆と破壊の都 ジョン・ドス・パソス『マンハッタン乗換駅』(1925)
平凡のなかの濃密で豪華な生活 ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』(1925)○
宙に浮いた楼閣 スコット・フィッツジェラルド『華麗なるギャツビー』(1925)○
荒野のおおかみの変身 ヘルマン・ヘッセ『荒野のおおかみ』(1927)○
フィクションとしてのナジャ アンドレ・ブルトン『ナジャ』(1928)
悪の聖域 ウィリアム・フォークナー『サンクチュアリ』(1931)
悪夢のような楽園 オルダス・ハックスリー『すばらしい新世界』(1932)
英雄、幇間、そして歴史 アンドレ・マルロー『人間の条件』(1933)
幸せなニヒリスト ヘンリー・ミラー『北回帰線』(1934)○
男爵夫人の物語 アイザック・ディネーセン『七つのゴシック物語』(1934)
悪夢のリアリズム エリアス・カネッティ『眩暈』(1936)○
頑固者たち アーサー・ケストラー『真昼の暗黒』(1940)
希望を持つ権利 グレアム・グリーン『情事の終り』(1951)
異邦人死すべし アルベール・カミュ『異邦人』(1942)○
社会主義、絶対自由主義、反共産主義 ジョージ・オーウェル『動物農場』(1945)
哲学と感性の娼婦 アルベルト・モラヴィア『ローマの女』(1948)
驚異的現実か、文学的仕掛けか? アレホ・カルペンティエル『この世の王国』(1949)○
勇気による救済 アーネスト・ヘミングウェイ『老人と海』(1952)
みんなの祝祭 アーネスト・ヘミングウェイ『移動祝祭日』(1964)
駄作礼賛 ジョン・スタインベック『エデンの東』(1952)
スイス人になれるか? マックス・フリッシュ『ぼくはシュティラーではない』(1954)
三十歳になったロリータ ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』(1955)
公爵の嘘 ジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーサ『山猫』(1957)○
風邪に揺れる焔 ボリス・パステルナーク『ドクトル・バジゴ』(1957)○
太鼓の乱れ打ち ギュンター・グラス『ブリキの太鼓』(1959)○
夢に揺れて眠る夜 川端康成『眠れる美女』(1961)
挫折に満ちた黄金のノート ドリス・レッシング『黄金のノート』(1962)
楽園の脱落者 アレクサンドル・ソルジェニーツィン『イワン・デニーソヴィチの一日』(1962)○
ばらばらになった人文学者 ソール・ベロー『ハーツォグ』(1964)
特性のない英雄 アントニオ・タブッキ『供述によるとペレイラは...』(1994)○
文学と生活
訳者あとがき