最近読んだ本、見た映画・芝居、聞いたCD

2008年8月

2008年8月 9日

コレラの時代の愛

cholera.jpg事前にNYで映画評が今一つだったと聞いていた。また、制作国がアメリカというのが私には気に入らない。なぜならスペイン語ではないから。メジャーに作ろうと思ったら、やっぱりUSしかないのだろうけど、どうせわからないのなら英語よりスペイン語の方が雰囲気が出る。でも、ロケはちゃんとコロンビアのカタルヘナでやってるし、映像を見るだけでいいやと思い、公開日初日に見に行く。期待していなかったから、そう思うのだろうか。拍子抜けするほど良かった。確かに原作の素晴らしさからすると、映画として中の上くらいというのは不満があるが、原作から極端に逸脱するわけではなく、真っ当な映画に仕上がっている。

ラテンの強い色彩、独特の暑苦しさと湿気、街の猥雑な雰囲気、旅する高地の風景、大河を航行する巨大汽船。そういった映像をきちんと撮ってくれただけで、もう御の字だ。俳優も悪くない。ハビエル・バルデムは別に好きではないけれど、うまいのは確かだろう。ヒロインをイタリア人にやらせるのはどうなの?という気もしないではないが、一人清純派といった面持ちで、女優陣の中で浮いているのは、かえって良いのだろう。

まあ原作は好きなように読めるからいいのだけど、映画は一つの解釈を押しつけられているようで、物語としてはやはりこの見せ方は納得できない。ウルビーノ博士の活躍がほとんど描かれず、映画が「フロレンティノ・アリーサの純愛物語」になってしまっているのが気に入らないのだと思う。

そもそも、原作の解釈からして、私は変に偏りがあるのだと思う。私にはフロレンティノ・アリーサが表舞台から消えてからが本番なように思えて仕方がない。彼は最後の結末をつけるために再度現れたわけで、要は彼は物語の外枠ではあるけれど、中心部分にいないのだ。読んでいるときも、フェルミーナがフロレンティノ・アリーサへの熱が急に冷めるところが、非常に共感できた覚えがあり、そのまま映像にも反映できていたように思える。少年時代だけ違う俳優がこの役をやったのは、意図したものなのだろうか。

彼らは実際にきちんと長い時間明るいところで話したことはなく、ほとんど手紙のやりとりでつながっている。彼女が父親に反対されても意志を変えず、苦労して旅をしている間は気持ちはつながっていたが、街に帰って来て家のことを任され、実質的な暮らしをするようになって、あらためて再会したときに、すーっと熱が冷めるのは当然だろう。いつまでも恋する乙女ではいられない。

だから彼女が医者とか実業家とかと結婚するのは当然のことだ。そしていつまでも恋する少年は、歳をとって一応は実業家になるが、不思議と影が薄いままだ。でもだからこそモテる。南米のマッチョな押しの強い男ばかりに囲まれていたら、「安全そう」「優しくしてくれそう」と近寄って行く女も多いだろう。622人切り、しかも自分から積極的に行ったのは一度だけ。51年、ただ待っているだけではない。その点、この男も悪くない。

一方、ウルビーノ博士とフェルミーナの結婚の紆余曲折は、あって然るべき夫婦の時の流れだろう。問題は常にあり、けんかばかりだったが、幸福だったと、歳をとってそう言えるのは本当に幸せなことだ。ウルビーノ博士の浮気のせいで別居して1年、迎えに来てくれたことをフェルミーナが神に感謝するシーンは、彼女の性格を夫がよく理解していること、彼女がこのまま戻れないのではないかと不安に思っていて、夫のところに帰ることができることを喜んでいることがわかり、この二人の長い年月が豊かなものであったことがよくわかる。

だからウルビーノ博士の負け、フロレンティノ・アリーサの勝ち、ということではなくて、単に最後にフロレンティノ・アリーサに恩寵が下ったということだろうと思う。大枠で原作を外しておらず、2時間半程度に収めているのだから、それだけでもうたいしたものだろう。

■製作国:2007年 アメリカ 157分
■監督:マイク・ニューウェル
■脚本:ロナルド・ハーウッド
■製作:スコット・スタインドーフ
■原作:ガブリエル・ガルシア=マルケス
■撮影:アフォンソ・ビアト
■音楽:アントニオ・ピント
■出演:ハビエル・バルデム/ジョバンナ・メッツォジョルノ/ベンジャミン・ブラット/カタリーナ・サンディノ・モレノ
■公式サイト:http://kore-ai.gyao.jp/