最近読んだ本、見た映画・芝居、聞いたCD

2008年2月

2008年2月28日

愛しのグレンダ

愛しのグレンダフリオ・コルタサル(1914-1984)はアルゼンチンの作家で、1960年代のラテン・アメリカ文学のブームの代表的な作家の一人。だから好きかと聞かれたとしたら、おそらく私は即答できないだろう。ボルヘスは積極的に読まないけれど、コルタサルは消極的に読む、といった感じ。「石蹴り遊び」に挫折したのも消極的になってしまう理由の一つだ。が、一応短編集なら読める。コルタサルの短編は非常によく出来た短編で、スタイリッシュというか技術的に洗練された作品が多い。もともと私は短編は長編より好きではない。その理由は短編ならではのストイックさやにあるのかもしれないが、コルタサルの場合は特に洗練されすぎているのかもしれない。

しかし、面白いことは確かだ。今回の短編集は後期を代表する短編集だそうだが、とても怖かった。ミステリー仕立てだから怖いというのもあるだろうが、日常の中に潜む幻想的な部分や、現実の中にちらと顔を覗かせる恐ろしい出来事が多いからだろう。超現実的なホラーは怖くないが、日常に潜む恐怖は本当に怖い。

「猫の視線」は導入にふさわしい美しい一品。「愛しのグレンダ」は狂信的な女優のファンたちの話で、最後に彼女にふさわしい贈り物を贈る話。出来としては一番良いと思う。

「トリクイグモのいる話」は南の島のバンガローにやってきた「私たち」が隣のバンガローにいる女性二人を気にしつつ、休暇を過ごす。この二人が何かをフラッシュバックのように記憶しているが、「ミシェルの農園に戻ってきたマイケルの白い裸体」が何を意味するのか。そしてこの二人と隣のバンガローの二人の女性の意味は?と思いつつ読み進めると、日本語には男性名詞・女性名詞がないから最後まで読んでようやくわかることがある。

「ノートへの書付」はブエノスアイレスの地下鉄に住む、地上転覆を企む組織の人々を追った話。理不尽にも地下鉄に住む人々の様子から全体主義への怒りが感じられる。目的は何にせよ、地下鉄に密かに住む人々がいて、その人たちがどうやって食事をとり、服を取り替え、眠っているのか、詳細な調査の結果はまさに「肥大化した妄想」だ。アルゼンチンの地下鉄と言えば昔の丸の内線の電車が走っているので有名だが(私も乗ったことがある)、この話に出てくる駅は実際はないものが多い。「フロリダ通り」とか実際にある有名な通りなので、騙されそうになった。路線図(Subte.com.ar)

「ふたつの切り抜き」はこの短編集の中で一番印象に残った作品だが、1970年代のアルゼンチンの軍事政権のすさまじさのせいだろう。「帰還のタンゴ」は痴情のもつれの果ての殺人が描かれている。タンゴは男が女を刺すのだが、この話は女が男を刺す。日本語の「帰還」の単語に「タンゴの逆」という意味をダブルミーニングさせているようだ。「クローン」も痴情のもつれの果ての殺人事件。8人の登場人物の相関図を楽器の編成になぞらえて本編の後ろに補足するというマニアックぶりがコルタサルらしい。「グラフィティ」はあからさまにアルゼンチン軍事政権の背景がある。一つとばして「メビウスの輪」はあと書きにあるように確かに不愉快な面もあるが、この短編集の中では最も実験的な作品と言えるだろう。女性を宇宙と一体化する視点も確かに感じられるが、私にとって印象的だったのは「形のない何か」が何らかの「意識」にとりついて形を成す、という不思議なイメージがあることだ。これはおそらく昔読んだ日本の昔話に「形のない意識のような生命体」というようなものが出てきて、その連想だろうと思う。だが、その話が具体的にどんなものだったのか思い出せなくて、ちょっと悔しい。

最後に、「自分に話す物語」を読んでいて、どうして私がコルタサルに対して、面白いとは思うものの、積極的になれないかがわかった気がした。コルタサルの作品にはここにあるようなユーモアが欠けているのではないだろうか。私が若い頃一応専門で読んでいたドイツ文学から抜け出したかったのは、あのユーモアのなさのせいだ。ラテンアメリカ文学のくせに何故ユーモアが欠けているのか?南米の中では暗めのアルゼンチンの作家だから仕方がないのか?などと勝手なことを思いつつ、この作品のラストは気に入った。幻想的でエロティックな流れにもっていきつつ、最後オムツ取り替えてるんだから。コルタサルにしては、少し意外なオチだった。

■著者:フリオ・コルタサル著,野谷文昭訳
■書誌事項: 2008.1.25 220p ISBN4-00-022152-3/ISBN978-4-00-022152-8
■原題:Queremos tanto a Glenda. Cortázar, Julio, 1980
■目次
猫の視線
愛しのグレンダ
トリクイグモのいる話
ノートへの書付
ふたつの切り抜き
帰還のタンゴ
クローン
グラフィティ
自分に話す物語
メビウスの輪

2008年2月18日

Flight 7 / paris match

flight7.jpgカバー曲集のOur Favourite Popやベストアルバムが出ているが、オリジナルアルバムとしては2年ぶり。その間にレコード会社が変わっている。その際に古澤大がメンバーから外れて3人→2人になってしまったが、作詞には相変わらず顔を出しているので、正式メンバーではなくなったものの依然協力関係にはあるのだろう。

レコード会社が変わると、音がガラっと変わったりするが、そんなことはなくて安心した。このバンドのベストは3枚目と4枚目とする声もあるが、それはそれで納得もするのだが、私はドライブミュージックを意識しすぎる3枚目や、やや派手過ぎる4枚目はあまり好きではなく、むしろ若干地味な5枚目6枚目の方が好みだったりする。というか私にとってのベストはやっぱり1stと2ndだ。これはきっともうどうしようもない。でも、この7枚目の、少し悪く言うとマンネリ感、良く言うと安定感は、私は悪くないと思う。でもそんなにマンネリな感じではないと思うのだけど...

アルバムは、まず派手なホーンセクションで幕を開ける。そこからは例によってソウルやジャズやラテンと様々な曲が展開される。2曲目のギターがカッコいい。2曲目は地下鉄だし、3曲目は自転車だし、少し自動車から離れようとしてる...のかな。3曲目の「Bikeride」は最近はやりのバイシクル・ソング。「ルイガノ」なんて名前がずいぶんと一般的になったものだ。さわやかなフルートとサックスが印象的で、CMに使えるのでは?と思われる。4曲目の「You make my day」もミズノマリの詩で、得意の日常を淡々と描くパターンだが、これはどうも受け付けないな。5曲目「SUNSHINE DAY」にはまたホーンセクションが戻って来て、6曲目の「Pardon」はボサノヴァっぽくてカッコいいけれど、詩が全然意味がない感じがしてちゃんと。7曲目「Dr.プラスティック」は再びホーンセクションが入って来てギターが印象的。私は古澤大の歌詞の方が好きだなと改めて思う。8曲目の「Jealousy」のピアノは良いが、これもまた歌詞が聞き流してしまうタイプ。10曲目「波待ち」はレゲエ調でホーンが強め。11曲目「水の時計」はキーボードが前面に出てきている、わりと私は好きなタイプ。ただ、ちょっと古い...というか、ちょっとワンパターンな気がするのはこういう曲のせいだろう。でも歌詞は良い。ラスト、「Ensemble」でさわやかにまとめました、と。

詩が3,4,5,6,8,10,11と7曲ミズノマリで1,2,7,11の4曲が古澤大。完全に形勢が逆転している。確かに音は特に変わっていないのだが、もう少し古澤大の詩を増やした方が良いと思う。別にミズノマリの詩が悪いとは言わないが、少し女性過ぎる。それだけになってしまうと、若い女性がメインターゲットかと思ってしまう。専業主婦のささやかな幸せをさわやかに歌われても、共感できる人もいるだろうが...まぁ、このちょっと退屈だけどシアワセなの...感がまったりとこの人の声に合ってていいのか。

私は「Metro」と「Dr.プラスティック」「水の時計」あたりが好き。でもなんと言ってもこのアルバムは「Mr.サマータイム」だ。

毎回1曲はカバー曲が入るparis match。今回はサーカスの1978年のヒット曲「Mr.サマータイム」のカバー。初の邦楽カバーか?と思いきや、もともとMichel Fugain(ミッシェル・フーガン)の「Une belle histoire(愛の歴史)」というフレンチポップが原曲。といっても、やっぱりこれは邦楽のカバーだろう。これまでのカバー曲も良かったけど、今回は驚かされた。オシャレなジャズアレンジの「Mr.サマータイム」を期待していたら、何?この1970年代ふうの泣きのギターは??と大爆笑。宇崎竜童かよ~と思ったら、松原正樹じゃん。そういえば、いつもparis matchのアルバムには参加してたけれど、今回も3曲(Metro、Dr.プラスティック、Mr.サマータイム)参加していて、どれもなかなか良い出来映え。特にこの「Mr.サマータイム」は出色だと思う。元パラシュートなんつってももう知らない奴の方が多いのだろうけど、日本の1980年代はこういうバリバリのギタリストが華やかだった時代で、「フュージョン」なんて今となっては意味不明な音楽ジャンルがはやったりしたものだ。

私は洋楽か、またはこんなフュージョン系を聴いていた生意気な中学生だったが、歌謡曲であっても、「Mr.サマータイム」という妙に艶めかしい哀愁の漂うヒット曲は妙に印象に残っている。杉山氏も同様ではないだろうか?

それにしても、この曲が一番印象に残ってしまうっていうのはどうなんだろう。ちょっと例外として扱った方が良いのかもしれない。これを外したら、結構バランスの良いまとまったアルバムなような気もしてきたな...

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paris match 2008年2月13日  Amuse Soft Entertainment ASCM-6010 3,000円
01. 虹のパズル(作詞:古澤大/作曲:杉山洋介)
02. Metro(作詞:古澤大/作曲:杉山洋介)
03. Bikeride(作詞:ミズノマリ/作曲:杉山洋介)
04. You make my day(作詞:ミズノマリ/作曲:杉山洋介)
05. SUNSHINE DAY(作詞:ミズノマリ/作曲:杉山洋介)
06. Pardon(作詞:ミズノマリ/作曲:杉山洋介)
07. Dr.プラスティック(作詞:古澤大/作曲:杉山洋介)
08. JEALOUSY(作詞:ミズノマリ/作曲:杉山洋介)
09. Mr.サマータイム(作詞:Pierre Delanoe/作曲:Michel Fugain/日本語詞:竜真知子)
10. 波待ち(作詞:ミズノマリ/作曲:杉山洋介)
11. 水の時計(作詞:古澤大/作曲:杉山洋介)
12. Ensemble(作詞:ミズノマリ/作曲:杉山洋介)

2008年2月16日

優男たち―アレナス、ロルカ、プイグ、そして私

優男たち―アレナス、ロルカ、プイグ、そして私文学者の評伝であり、作家の自伝であり、文学評論でもある、非常に面白い本で、一気に読んでしまった。

プイグもアレナスも邦訳は全部読んでいる大好きな作家だ。アレナスは自伝が出ていてそれが映画になっているくらいなのでその人となりも知られているが、プイグの方はあまり知らなかった。「リタ・ヘイワースの背信」のトートーや「蜘蛛女」のモーリーナがプイグ自身の反映であることは知っていたが、あのウィリアム・ハートの仕草がプイグ自身のものだったとは…。プイグって本当の「オカマ」だったんだなぁと。本書での訳もプイグの話し方は、完全に「オネエ」言葉だし。

でもアレナスはオカマっぽい感じはしないのだけど、マッチョ系の「ゲイ」のようなイメージだった。なんというか、ラテンのゲイっぽい田舎くささが抜けない人だなと思っていたら、本書でも記載されていたので、少し笑えた。ニューヨークのゲイは日本のゲイと同様「短髪・ダテメガネ・ピチピチTシャツ」がお約束なのかな?

「優男」は「優しい男」と「優れた男」のダブルミーニングだそうで、原題は「オカマ偉人伝」なんだそうな。芸術家にゲイが多いことを当然のように受け止めている私からすると、彼らの苦悩は意外にすら思えるが、考えてみたら、ガルシア・ロルカはファシズムの時代だから当然としても、アルゼンチンの1970年代の軍事政権やキューバのカストロ政権の弾圧なんてまったくもって前近代的だから、ゲイが容認されない世界なんだなぁと。3人ともニューヨークで己の本性を開花させることが出来たところが、さすがはニューヨークというべきだろう。

それにしてもプイグもアレナスももう亡くなってるんだな…と、今更ながらだが、残念に思う。というのも、バルガス=リョサやガルシア=マルケスが未だ精力的に本を書いているからなのだが。プイグの方は本書でも明確にはなっていないし、公には言われていないが、やはりAIDSの可能性を捨てきれない。アレナスはもちろんAIDSのせいだ。AIDSが心底憎い。

最初と最後にハイメ・マンリケ自身の自伝が書いてあったが、特に青年期までの自伝はラテンアメリカ作家のある意味土くさい感じがすごく好みだった。小説の方の翻訳が出ないかと期待している。

それにしても、どうして刊行から1年以上経過してからこういう本があることに気づいたのか。たまたま「プイグ」で検索したら出てきたのだけど、どうしてその前に気づかなかったのかとつくづく思う。

■著者:ハイメ・マンリケ著,太田晋訳
■書誌事項:青土社 2006.12.25 285p ISBN4-7917-6316-5/ISBN978-4-7917-6316-0
■原題:Eminent Maricones : Arenas, Lorca, Puig, and Me by Jaime Manrique, 1999
■目次
1 脚―幼年期と思春期の回想
2 マヌエル・プイグ―ディーバとしての作家
3 レイナルド・アレナス最後の日々―海のごとく深い悲しみ
4 フェデリコ・ガルシア・ロルカと内面化されたホモフォビア
5 もうひとりのハイメ・マンリケ―死せる魂
6 最近

2008年2月11日

楽園への道

楽園への道/マリオ・バルガス=リョサバルガス=リョサの2003年の作品が「河出世界文学全集」の第二巻として刊行された。この文学全集、初訳が少ないのだが、この巻は初訳で、全集の目玉の一つと言えるのではないだろうか。フローラ・トリスタンとポール・ゴーギャン。違う時代に生きた祖母と孫だが、共通点は波乱に満ちた生涯を送ったこと、そしてペルーである。フローラの父親はペルー人で、成人後ペルーを訪れ、得難い体験をしており、この女性が労働運動家・女性運動家として活動するきっかけを作ったのは、ペルーの女性たちの自由さだったという。また、ゴーギャンも幼い頃ペルーで過ごしている。特にゴーギャンの南方指向にはペルーでの幼児体験が大きく影響しているとリョサは考えている。

ゴーギャンの方は1892年4月に最初にタヒチに着いた時から物語は始まる。同年「死霊は見ている」はテハッアマナというタヒチに渡って2番目の愛人がモデルである。

床に敷いた敷布団の上で、裸でうつ伏せになったテハッアマナが、丸みを帯びた尻を少し浮かせ、背中をやや曲げて、顔を半分彼のほうに向けながら、動物のようにひどくおびえた表情で、目も口も鼻も引きつらせたまま顔をしかめるようにして、彼を見つめていた。

「マナオ・トゥパパウ」と名付けられたその絵は、ゴーギャンがヨーロッパではもう見つけることの出来ない何かに触れた、幻想的な経験だった。

1893年「神秘の水」(パペ・モエ)は中性的な少年を描いた、水彩画である。

花や葉、水、淫らな形をした石の森の真ん中で、岩にもたれ、渇きをいやすためか、その土地の見えない神をあがめるためか、その陰影のある美しい身体を小さな滝のほうに傾けている一人の人間である。

「アイタ・タマリ(ジャワ女アンナ)はゴーギャンがパリに戻った後、一緒に暮らした女性だが、その絵の裏には実はジュディットというモラール家の令嬢が描かれているというリョサの解釈が書かれている。

ゴーギャンが再び タヒチを訪れ、描いた「ネヴァーモア」はゴーギャンの子を妊娠中のパウッウラを描いたもので、失敗に終わった自殺を前に描いた大作「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」の詳細な解説もある。最晩年の「ヒヴァ・オアの呪術師」(妖術使いあるいはヒヴァ=オア島の魔法使い) の男とも女ともわからないように呪術師を描いている。このモデルになった人物も登場する。

というように、まずはゴーギャンの画集を購入した方が良いと思う。リョサ自身もゴーギャンの絵の入ったものを刊行することが希望だそうだが、それも当然だろう。

フローラ・トリスタンを知っている人はプロレタリア思想などに詳しい人だけではないだろうか。ジョルジュ・サンドは知っていても、フローラ・トリスタンは知らないのは仕方あるまい。リョサがこの人を発掘してくれなかったくれなかったら、私はずっと知らないままだったのではないだろうか。彼女の著書「ペルー旅行記―ある女バリアの遍歴」「ロンドン散策」は邦訳が出ている。

パリは世界でも最も女性の強い街だろうと思うが、こういう人たちが150年以上前にえらくひどい目に遭って、戦って勝ち得て来たものなのだろう。

ゴーギャンとトリスタンの二人の物語が交互に進行するが、互いに浸食し合うことはない。彼らの生涯のうち最晩年の頃が時系列に物語られつつ、彼ら自身が回想する形で遡って伝記がたどられる。騎士道物語の体裁をとっているそうで、突然語り手が主人公たちに語りかけるような調子が入るが、基本的に第三者の語り手のまま、混乱することなく進んでいく。

リョサの初期の作品に比べれば、小説技法としては拍子抜けするほどわかりやすく、画期的な試みは見られない。ゴーギャンとフローラ・トリスタンの手紙や著作などの歴史的事実をベースに著者が自由にフィクションを作り上げていることは見て取れる。だが、やもすれば普通の歴史小説のようで、少々物足りなさを感じてしまうのは私だけだろうか。量的には500ページ以上なので、充分すぎるほど充分なのだが…

■著者:マリオ・バルガス=リョサ著, 田村さと子訳
■書誌事項:河出書房新社 2008.1.10 516p ISBN4-309-70942-7/ISBN978-4-309-70942-0
■原題:El Paraíso en la Otra Esquina: Mario Vargas Llyosa, 2003