最近読んだ本、見た映画・芝居、聞いたCD

2007年9月

2007年9月17日

ガラスの街

コヨーテ21号Switch Publishingが刊行している『Coyote』という雑誌に柴田元幸訳のポール・オースター「City of Glass」が掲載されている。

これはオースターのニューヨーク3部作と呼ばれる初期の傑作だ。日本では「シティ・オブ・グラス」として角川書店から刊行されたが、オースター・ファンの間では柴田訳が待望されていた。白水社の「鍵のかかった部屋」を選ぶ前に本作を選んでいて、最初の方だけ訳して、版権が取られていたことを知らされたと、いういきさつが本誌に掲載されている。

私は「翻訳にケチつけるなら、原文で読め」と思っているので、公然と翻訳にケチつけるようなことはしない。日本語で読まさせていただいて、ありがたい、という気持ちを翻訳者の方々にはもっていないとと思う。しかしこうやって2種類目の前に出されてしまうと「うーん、やっぱり柴田先生の言うように、翻訳は一語一語にこだわっていないで、日本語のリズムが大事なんだなぁ」と思わずにはいられない。簡単に言うと「読みやすい」。

今回久しぶりに読み返してみて気づいたが、クインという人物の顔が思い浮かばない。意図的にそうしているのだろう。これはクインが街の中へ「消えてしまう」までのお話だが、もともと「顔をもたない」存在だったのだなぁと思う。

ポール・オースターと間違えたのは何故か、スティルマン夫妻はどんな意図があってクインを巻き込んだのか、スティルマン夫妻のアパートでクインに食事を出していたのは誰か等々、説明をつけていないことが大量にあるからこそ、今も魅力的な作品だ。ふと思ったが、ヴァージニア・スティルマンが間違えた人物の名前が「ポール・オースター」でなかったらどうだっただろうと思う。おそらく、かなりつまらない。やっぱり、レベルの高い作品はパズルのように組み上がっているのだなぁと思う。

本作の中でクインが言う、ミステリは無駄のないところが好きだという意見には同意するが、この作品も無駄がまるでないな。

書名:COYOTE No.21 特集・柴田元幸が歩く、オースターの街―二〇〇七年、再び摩天楼へ
書誌事項:スイッチ・パブリッシング 2007.9.10 ISBN978-4-88418-208-3

2007年9月16日

エウメニデス

エウメニデス平栗さんが出ているので見に行く。で、平栗さんが相変わらずきれいなので、満足して帰る。要はそれだけなんですが。

エリーニュスたちがオレステスを追い立てる、その図はまさにこの「オレステスの悔恨」という絵があって、今回の芝居はまさにその再現。最初、エリーニュスたちがオレステスを追い立てるシーンは、なんだか懐かしいお芝居の独特の緊張感があって、気に入った。平栗さんの登場も良かった。しかし話が進むにつれ次第だれていってしまって、せっかく75分1幕もの、という素晴らしい短さなのに、何故か長く感じられた。アポロンがちょっとだるい感じを漂わせ、陪審員の選出あたりで集中力がふっつり切れてしまった。

エリーニュスたちのような大地に属する「古い神」vs アポロンやアテナイなどの「新しい神」という対立構造は目新しいものではない。血によって呼び起こされる異形の神たち=エリーニュス(衣装はよかったと思う)の存在は何故か自然と気持ちの中に入ってくる。それはおそらく比較神話やニーチェの「悲劇の誕生」などが私の頭の中に残っているせいだろう。だから、導入はとてもよかった。

何がしっくりいかないかって、やっぱり「愛と対話で復讐を阻止する物語」だからなんだろう。日本にはもっともっと昔から魑魅魍魎がいて、必ず復讐を遂げるものなので、ピンとこない。第一イスラエルの人にそんなこと言われてもな…平和ボケしている我々の方が恥ずかしくなるくらい理想論だ。役者のみなさんはとてもよくやっていたが、アテナの説得は無理があった気がする。

出演者の半数近くが前回のルティ・カネル演出シアターX公演「母アンナ・フィアリングとその子どもたち」の出演者だが、平栗さんは円企画絡みかな?。座席は四方を囲むスタイルだが、やはり近すぎて若干緊張した。陪審員に選ばれなくてよかった…。

シアターX創立15周年記念プロデュース公演
企画・製作:シアターX(第1回 101スピリット in シアターΧ)
会期:2007年9月14日(金)~23日(日)
会場:シアターΧ
原作:アイスキュロス 「オレステース(憎しみの連鎖)3部作」より
構成・演出:ルティ・カネル(イスラエル)
翻訳:谷川渥
音楽:ミカ・ダニ(イスラエル)
衣裳:加納豊美
衣装・振付:シルリ・ガル(イスラエル)
照明:清水義幸
舞台監督:清水義幸
美術制作:江連亜花里
宣伝美術:MALPU DESIGN(佐野佳子)
出演:平栗あつみ(クリュタイメストラの霊、エリーニュス)/谷川清美(エリーニュス)/大野耕治(エリーニュス)/須川弥香(エリーニュス)/生方和代(巫女、エリーニュス)/瑞木健太郎(オレステース)/真那胡敬二(アポロン)/金子あい(アテナ)

2007年9月10日

土星の環―イギリス行脚

土星の環―イギリス行脚刊行を待ち焦がれていて、すぐに購入したわりには、なんだかもったいなくてしばらく手をつけられずにした。それくらい大切な作家だ。しかし、それは何故なんだっけ…?と思って読み始めてすぐ、ああそうそう、この感じ。これが好き、と思い出す。不思議な感じがする。かつて一度も味わったことのない、妙な感じ。随筆でもなければ、小説でもなく、むろん学術書でもない。どこかにかならずホロコーストが入るところかわもわかるように、決して明るくはない。が、陰鬱というわけでもない。なんとも言えないユーモアがある。イングランドの寂しい風景がずっと続くのに、暗くない。心地よい静寂な感じ…とでも言ったら良いだろうか?

1992年に「私」=限りなくイコールに近いが完全にイコールではない=W.G.ゼーバルトがイングランド東部の海岸部を徒歩で散策したときの話。と言っても旅行記ではないし、随筆でもない。その地で実際に旅した情景もあるし、実際に出会った人も出てくるが、その土地土地にゆかりの歴史的な人物や事件、「私」が過去に別の場所で出会ってふと想起させられた人々などが次々と登場する。一応十章に分割されているものの、その一章の中のエピソードからエピソードへの流れは常に滑らかで、切れ目がわからない。


17世紀イギリスの医学者・哲学者トマス・ブラウンはノーフォーク州のノリッジで開業していた。1632年にオランダ・アムステルダムにて公開解剖が行われ、そのときの模様をレンブラントが描き出している。ひょっとしたらトマス・ブラウンはこの公開解剖を見学していたのではないか…?という「私」の想像から、滑るように思考は巡る。

19世紀の大実業家モートン・ピートーが建て、栄華を誇ったカントリー・ハウス・サマレイトン邸とピートー卿の指示のもとイギリス有数の保養地となったロウストフトという街の零落した姿が描かれる。浜の漁師からベルゲン・ベルゼンの強制収容所(アンネ・フランクらが送られた有名なユダヤ人強制収容所)の解放者の一人であったル・ストレインジなる人物、そして「ウクバール」と言えばボルヘスの作った仮想の地名(一言もボルヘスの名は出てきませんが)へと、どうやったらつなげられるんだろうという話を、特につなぐ意志もないようで、それでいてちゃんとつながっていて次々と展開されている。

順を追っていくときりがないが、アイルランド独立運動に荷担したとして処刑された外交官ロジャー・ケイスメント(1864~1916)、浪漫派詩人のアルジャーノン・チャールズ・スウィンバーン(1837~1909)、「ルバイヤート」の英訳者エドワード・フィッツジェラルド(1809~1883)、フランスの政治家・作家のシャトーブリアン(1768~1848)ら多数の人が登場するが、特にジョゼフ・コンラッド(1857~1924)に関する部分が印象に残る。それはコンラッドがはポーランド出身のイギリスの作家だからだろうか。ゼーバルト自身、ドイツ出身のイギリスの作家だから。

「移民たち」を思い起こすまでもなく、ゼーバルトの作品に登場するのは、禁止されていた時代の同性愛者だったり、異邦人だったり、迫害から逃れた移民だったり、はたまた零落した地主だったりと、歴史の流れで世間からはじき出されてしまった人ばかりだ。

そして今回の「土星の環」では、日本人にはなじみ深い「栄枯盛衰」「盛者必衰」の言葉が浮かんで来そうな街や建物が多く登場する。「はかないのぅ…」という感慨はイギリス人も抱くらしい。

いずれにせよ、ゼーバルトの博学ぶりには恐れ入る。おそらく自分が学生だったら飛びつくな…と思う。調べているだけでも楽しそう。

■著者:W.G.ゼーバルト著,鈴木仁子訳
■書誌事項:白水社 2007年8月10日 289p ISBN978-4-56-002731-8(ゼーバルト・コレクション)