最近読んだ本、見た映画・芝居、聞いたCD

2007年4月

2007年4月30日

ミネハハ

ミネハハヴェデキントの本が出ていると気づいたとき、とても驚いた。理由を探すとこの作品を原作とする映画「エコール」が公開されたためだという。なるほど。しかし、なぜ市川実和子?妹の実日子は好きだけど‥と思って後書きを読むと、「戸田史子さんが、原文のドイツ語からまっすぐに訳してくださったものを、 わたしが自分の言葉に色染めていく。」とある。一応「ドイツ語会話」に出ていたこともあってドイツ語は多少はわかるらしいが、これで翻訳と言えるのか‥?彼女の文章にはある意味なっているのだろうけど、不可解だ。リトルモアが出した理由もよくわからない。

フランク・ヴェデキントは私には思い入れの深い作家だ。なんといっても卒論が「地霊・パンドラの箱」なのだから。しかし「ミネハハ」という作品のことは知らなかった。というのも、劇作家だと思っていたからではないかと思うが、なにぶん当時はほかに翻訳されていたのが「春のめざめ」だけなのだから、仕方ない。

ところで、映画「エコール」はストレートに「ロリータ」好きにはたまらんというものらしい。そういう内容だから当然だろう。しかし、女性監督なので、おそらくは本来は少女の美しい姿が描きたかっただけなんだろうと推察できる。ともあれ、見ていないのだから何とも言えない。見たい気もしないではないが、今一つ乗り気になれない。

ヴェデキントは当時とんでもなく危険な劇作家だったのだろう。実際検閲にあい、発禁処分になっている。今読むと、むろんそんな危険な感じはせず、美しい物語になってしまっている。おそらくは孤児院か何かで育てられた女の子が7歳くらいで箱に入れられて運ばれてきて、その後初潮を迎えるまでの間、外界から隔絶された森の中の学校で教育を受ける。女の子たちは年齢の違う子でグループを形成し、上級生は下級生の面倒をみるというシステム。彼女たちの身の回りの面倒を見る老婆がそれぞれのグループに二人いて、逃げだそうとして、と一生ここから出られずに女の子たちの面倒をみさせられると教えられ、誰も逃げだそうとはしない(映画では逃げだそうとする子が死んでしまう)。ある一定の年齢になると夜は少し離れた劇場で踊るようになる。それが学校の収入源らしい。どんな客が来ていて、そんな人物が経営しているのかなどはまったく語られていない。一瞬、いわゆる洗脳の物語かと思ってしまったりもしたが、外に出てから普通の生活をして来た人が語り手になっているので、それもなさそうだしな‥と思っていると、学校の正体はよくわからないまま終わってしまう。

何にせよヴェデキントの作品を日本語で気軽に読めたのだから文句はないが、どうもおかしな取り上げられ方だなと思わざるを得ない。

■著者:フランク・ヴェデキント著, 市川実和子訳
■書誌事項:リトルモア 2006年10月19日 118p ISBN-89815-186-8
■原題:Frank Wedekind : MINE-HAHA, 1903

2007年4月23日

雪 オルハン・パムク

雪この本を読もうと思ったきっかけは、もともと自分がトルコ好きで去年ノーベル文学賞を受けたのがトルコの作家だったということもあったが、直接的なものとしては今年の1月末頃、フラント・ディンクというアルメニア人ジャーナリストが殺害されたせいだ。トルコには民族問題が存在する。アルメニア人、クルド人という民族が存在しており、過去に虐殺問題があるが、トルコ政府が正式に認めていない‥なんだか国内の事件ではないけれど、どこかの国に似てないか?件のジャーナリストはアルメニア人虐殺問題を声高に叫んでいたのが原因で、以前から極右より脅迫されていたそうだ。オルハン・パムクもトルコ政府はこの事件を認めるべきとの論陣を展開し、「国家侮辱罪」で起訴された過去があるが、パムクはトルコ人だから脅迫されたりはしないとフラント・ディンクの言及があったので、記憶にずっと残っていたのだ。

ところで本書だが、なかなか長い。しかし、一気に読ませるおもしろさが充分ある。正直言うと、8割くらいは一気に行けたのだが、終盤力尽きてしばらく放置してしまった。原因は多分「先が見えたから」。これは私の悪い癖で、著者のせいではない。

それにしても古いなぁと思う。決して悪い意味ではないのだが、埃をかぶった世界文学全集を読んでいる気分だった。いや、埃をかぶった世界文学全集が私は好きなのだけど、2002年に上梓された本とは思えないのだ。理由はおそらく翻訳の文体と、やはり内容かなと思う。内容といっても、テーマ自体はもちろん新しいものだから話の内容ではない。物語の構造は第二次大戦後ヨーロッパの影響を受け、反イスラム文化を掲げて近代化を成し遂げた結果、昨今アイデンティティの危機に陥ったトルコ人がイスラムへ回帰しており、イスラムのテロリスト対ヨーロッパかぶれの文化人くずれの主人公という図なので、これが現在のトルコなんだろうと思うわけで、別にそこに古さとか新しさを感じるわけがない。教養小説くささと異常なまでの恋愛至上主義が18世紀の古典主義文学のように思えたのだと思う。

著者は政治小説なんか書きたくなかったらしく、「最後の政治小説だ」と言っている通り、とても政治小説らしくない面白い恋愛小説だと思う。一番おもしろかったのは、Kaがイペッキとやりたくてしょうがなくて、父親が同じホテルにいるだけで「出来ない」と言われてしまったが故に、必死で父親を追い出す作戦に出たところ。テロリストたちに「実在しない新聞記者に渡してやるから声明文を書け」と言い、コミュニスト代表としてイペッキの父親を推薦し、かつ滅多なことでは外出しない彼を必死で説得するという一連の行動がおかしくてしょうがない。どこが政治小説なんだ…とこの辺では思ってしまった。

とはいえ、イスラムのことはやはり理解できないなぁと毎度のことながら思ってしまう。もっといろいろ読まないとダメなんだろう。たとえばカディフェら髪を覆った少女たちがそのトゥルバン(ターバンとは本書では言わない)を外さないと公の教育機関に入れず、それを苦にして自殺してしまった少女がいるという件。髪を覆うイスラムの女性とはいわばフェミニズムの観点からするともっとも反動的な姿なのだけれど、それをやめろと言われるのがイヤって何それ?と思う。元々アラーの教えは非常に現実的なところから来ていて(あんな暑いところで豚なんか食べたら死ぬよ、そりゃ)合理的なものが根本にあると教わった。髪を覆うのも男からおそわれないよう女性を守るための教えだったわけだが、そもそも女性を守るためのルールを決めるより、襲わないようなルールを決めろよとか思ってしまったりもする。だが何にせよ、己の信念に基づいた行動を他人に迷惑をかけているわけでもないのに、法律違反という理由で止められるのは屈辱という、その辺は理解できるのだが。

トルコのヨーロッパに対する歴史的背景は、日本人からは遠いものだが、トルコはいつだって決して日本と遠い国ではなかったと複数の書籍が教えてくれた。共通点は西洋文化に対して独自の文化、アイデンティティを守って行けるかどうかという試練にいつも立たされているところだと。が、日本の方がヨーロッパやアメリカに対して距離がある分まだトルコほどは激しくないと思う。宗教も対立していないし、トルコ人の方が多分大変なんだろう。

関係ないが、最近のトルコ・サッカーはよくない。2006W杯プレーオフ第2戦トルコ対スイスの話でしばらくの間すっかりトルコ嫌いになってしまった。2002がよかっただけに、なんだかなぁ…。しばらくしたら復活すると思うのだけどね。

■著者:オルハン・パムク著,和久井路子訳
■書誌事項:藤原書店 2006年3月30日 572p ISBN978-4-89434-504-1
■原題:Orhan Pamuk : Kar, 2002