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2006年8月15日

サッカーが世界を解明する

サッカーが世界を解明する■原題:How Soccer Explains the World: Franklin Foer
■著者:フランクリン・フォア著,伊達淳訳
■書誌事項:白水社 2006.5.24 ISBN4-270-00127-5 278p
■目次
第1章 ギャングスターたちのパラダイス―ベオグラード
第2章 セクト主義の好色性―グラスゴー
第3章 ユダヤ人問題―ウィーン
第4章 フーリガンたちの郷愁―ロンドン
第5章 幹部たちの存亡―リオ・デ・ジャネイロ
第6章 黒いカルパティア山脈―リボフ
第7章 新しい寡頭資本家の台頭―ミラノ
第8章 ブルジョア国家主義の控えめな魅力―バルセロナ
第9章 イスラムの願い―テヘラン
第10章 アメリカの文化紛争―ワシントン

■感想
比較的量が薄いわりに、なんと中身の濃いノンフィクションだろうか。というか、もっともっと書いて欲しい。物足りないくらいだ。グローバリゼーションが世界中のサッカー及び各地ににもたらした変化と、逆にグローバライズされない現実をあちらこちらのルポを基描き出している。アメリカの政治記者らしく、社会的な見地から書かれてはいるが、きちんとサッカーと向き合っていて、非常に興味深い話が満載だ。メモみたいに書き出しておかないと、忘れてしまう。

1.民族問題:旧ユーゴスラビア、セルビアを代表するレッドスター・ベオグラード。ここのフーリガンはクラブの頭痛の種などではなく、クラブ経営にも関与するほどの大物であり、1990年代のあのクロアチアら旧ユーゴスラビアが倒壊した戦争では、当初は単なる過激なファンだったのが、テロ組織へ、そして軍隊へと発展し、ムスリム大虐殺などにかかわっていたことが明らかにされる。

2.宗教問題:スコットランドリーグのグラスゴー・レンジャーズが中村俊輔も在籍するセルティックとの戦いが激しいことは知っていたが、その理由までは考えてみたことがなかった。単に同じ街にあるクラブで両方とも強いからだろうと思っていたら、宗教戦争を引きずっていたとは。しかも古さでは一、二を争うカソリックとプロテスタントの戦いが根底にあり、「オレンジ公ウイリアム」なんて懐かしい人の名前まで出てきてしまうあたり、なんてディープなの!

3.ユダヤ人問題:ウィーンに1920年代にあったユダヤ人だけのクラブを追う話から始まる。ユダヤ人問題が第二次大戦時と同じものではなく、変質して現在も存在していることを教えてくれています。ネオナチというのもまたニュアンスとして第三帝国とはまるで違うんだなぁと。ヨーロッパ人がユダヤ人に対して感じる異質さというものは、アフリカ人を異文化と感じるのと同じレベルになっているのだなぁと思う。良い悪いではなく、「違う」というものがたくさんあって、そのたくさんの「違うもの」たちの中の一つになってしまっているのだと書いてある。

4.フーリガン:昔のフーリガンカルチャーよ、いまいずこ‥。イギリス人もおとなしくはなったが、未だにワールドカップだと数の多さでやっぱり圧倒される。街中で酔っぱらってボールを蹴ったりして大騒ぎはするが、他人に乱暴ははたらかないのだなと2002年の札幌で感じた。今回の2006年のドイツでもやっぱり数は多かったそうな。

5.ブラジル:腐敗の体質は根深い。海外に流出してるのは仕方がないのだけれど、国内の状況が悪すぎる。アルゼンチンの方が今や貧乏で、クラブ経営については厳しい状況が続いている。だが、ブラジルの方が観客動員数という点で非常に悪いと思う「。最後は故国のチームに恩返しがしたい」というような台詞をブラジルの一流選手が言わなくなって久しい。

6.ウクライナサッカーのお話は「ディナモ―ナチスに消されたフットボーラー」というディナモ・キエフの本に詳しい。最近の話はNumber Plus「欧州蹴球記」にある。

7.イタリア・サッカーに巣くう不正はもはや土着的なものなのだなと、昨今のセリエAでの事件を見るにつけ思う。ユーベみたいな一流クラブの会長が、審判買収だなんて、そんなわかりやすいこと本当にするのかなと思うのだが、実際にやっていたのだから、呆れる。おそらく現地では「公然の事実」なのだろう。イタリアは学歴社会ではなく縁故社会だというのはよく聞く。身内をひいきするのは決してやましい行為ではなく、むしろ歓迎され、ほめられるべきことなのだろう。それもこれも統一される前のイタリアが各国に分かれていて、各地の出身者がミラノや北部に押し寄せていく過程で出来上がっていった慣習なのだろう。

8.リーガ・エスパニョーラ=スペインについては、いろいろと語り尽くされているが、いわゆるフランコ時代に圧迫されていたカタルーニャの象徴としてのバルサ対ひいきされていたレアルという簡単な図式だけでは語れないのだなということがわかって、ちょっと面白い。クラシコでの激しさを考えるとバルサのサポーターが憎んでいるのはレアルのサポターではなく、レアル・マドリーに象徴される中央集権の思想であるとは信じられない。が、確かにサポーター同士でのいざこざはあまり聞かない。それに、言われてみたら確かにカタルーニャはバスクのようなテロには走らない。それにカタルーニャを象徴するチームなのにオランダ人監督がオランダ人をたくさんつれて来ても文句を言わない。単に勝てば良いのだ。しかも自分たちが臨むサッカーの形で。なるほど。愛国主義がグローバリズムとともに歩むことができる見本とも言える。マドリーなんかより遙かに経済的にはバルセロナの方が発達しているという実利主義的なところがまたバルサの魅力だろう。

関係ないが久しぶりに今シーズン(2006-2007リーガ)はバルセロナを追いかけてみるか‥メッシもいることだし。あと、アトレチコとサラゴサとビジャレアルがあれば見るみたいな感じ。ちょっと、当分バレンシアを見る気になれないなぁ。

9.イランか‥イランってアジアだと強いのだけど、ワールドカップだと腰抜けになってしまうのは本当に不思議。しかしイスラムの女性だってやっぱりサッカーは見たいのだ、ということがわかった。イスラムの思想や宗教、そのものに対しては特に批判的に感じたことはないのだが、あの女性差別だけはやっぱり勘弁だな。

10.アメリカにおけるサッカーはインテリやヤッピーのサッカーという側面がある。アメリカでサッカーが受け入れられない理由は計算出来るゲームが好きなアメリカ人にはサッカーの予測不能なところが受け入れがたいとか言われていたが、それだけではないようだ。「ベースボールorアメフトorバスケとビールとポップコーン」みたいなのが「アメリカ的」であって、それ以外がアメリカ的ではないという、なんと逆に単純な理由もあるのだ。むしろそのアメリカ的ではないところが、一時期ヤッピーやインテリに受けたということだろうな。確かに「アメリカ的」と言われるものの中に野蛮な田舎っぽいやぼったいイメージがあるから、それに抵抗を感じた親が子供にサッカーを教えるというわけだ。でも、その子供はずっとサッカーをプレイしたり応援したりはしないのが不思議だな。