石灰工場
■原題:Das Kalkwerk, 1970
■著者:トーマス・ベルンハルト著,竹内節訳
■書誌事項:早川書房 1981.12.15(ハヤカワ・リテラチャー)
■感想
ベルンハルトの作品のうち、日本語訳が出ているものはさほど多くないが、これは一番最初に刊行されたもので絶版である。ただの絶版ではなく、古書店でもなかなか出てこない。昔のように古書店巡りをしていないので確信はしていないが、かなり探さないとないだろう。図書館で本を借りて読むのは嫌い(返したくないから)だが、やむを得ない。
比較的時期の早いものを読んでから言うことではないが、ベルンハルトはワンパターンと言われる理由がようやくわかった…というか、腑に落ちた。厳密に言うと、1970年頃のこの作品からこのトーンになって行ったらしいのだが、その前の作品を読んでないのでよくわからない。ワンパターンというのは簡単に言うと次の通りだ。間接話法(○○に言った)。改行なしで一気に語る。ストーリーらしいストーリーはなく、短い事件の後に時系列でいうとずっと遡っての出来事が延々語られる。同じテーマ、同じ口調、同じ内容の文章が繰り返されている。
そして、繰り返し繰り返し「書き上げる」とか「書こうとする」といった言葉に表されるように、主人公は何かを書こうとして書けない点が何より共通項である。「破滅者」のヴェルトハイマーも「消去」のムーラウも書こうとして書けない。そして、この「石灰工場」のコンラートも書こうとして書けない。本書の場合はまた特に「書けないこと」がテーマであるかのような印象だ。
話は石灰工場に妻と二人で住むコンラートという老人が妻を猟銃で殺害し、自分は2日間野壺(イメージがわかない…)の中に隠れていて逮捕され、今は裁判中であるといったようなことだけである。
そもそも「石灰工場」というタイトルからしてプロレタリア文学のようなイメージだ。「石灰工場」という言葉からして健康に悪そうな=非人間的な建物のイメージが喚起されるが、世間から隔絶された場所のデフォルメされた形である。コンラートは人から隔絶されたこの建物に行って自分の研究を執筆することに長年固執してついに実現するのだが、結局石灰工場にはいったことで更に研究は邪魔されてしまうことになる。
それにしても、どうしてコンラートは書けないのか。病気による奇形のため、車椅子生活を余儀なくされている夫人と聴覚の研究に執念を燃やす夫の、一種サディスティックな、どちらがどう虐待しているのかわからないような、バランスをようやく保っている関係が壊れてしまうから、書かないというようなことが後書きに書いてあったが、果たしてそうなのだろうか?彼が言うように延々と邪魔されるからなのだろうか。「書けない」「書けない」という話が延々続くので、逆に「書ける方がおかしいだろう?」という気になってくる。これが作者の術にはまったということか。
自伝五部作とか出ないのかなあと思っていたら、それより戯曲が2作出るらしい。とりあえず、それを待つとしよう。今まで調べたベルンハルトの書誌事項などをまとめたページを作成。戯曲が出たらまたこちらにも追加する。