最近読んだ本、見た映画・芝居、聞いたCD

2006年5月

2006年5月17日

石灰工場

石灰工場■原題:Das Kalkwerk, 1970
■著者:トーマス・ベルンハルト著,竹内節訳
■書誌事項:早川書房 1981.12.15(ハヤカワ・リテラチャー)
■感想
ベルンハルトの作品のうち、日本語訳が出ているものはさほど多くないが、これは一番最初に刊行されたもので絶版である。ただの絶版ではなく、古書店でもなかなか出てこない。昔のように古書店巡りをしていないので確信はしていないが、かなり探さないとないだろう。図書館で本を借りて読むのは嫌い(返したくないから)だが、やむを得ない。

比較的時期の早いものを読んでから言うことではないが、ベルンハルトはワンパターンと言われる理由がようやくわかった…というか、腑に落ちた。厳密に言うと、1970年頃のこの作品からこのトーンになって行ったらしいのだが、その前の作品を読んでないのでよくわからない。ワンパターンというのは簡単に言うと次の通りだ。間接話法(○○に言った)。改行なしで一気に語る。ストーリーらしいストーリーはなく、短い事件の後に時系列でいうとずっと遡っての出来事が延々語られる。同じテーマ、同じ口調、同じ内容の文章が繰り返されている。
そして、繰り返し繰り返し「書き上げる」とか「書こうとする」といった言葉に表されるように、主人公は何かを書こうとして書けない点が何より共通項である。「破滅者」のヴェルトハイマーも「消去」のムーラウも書こうとして書けない。そして、この「石灰工場」のコンラートも書こうとして書けない。本書の場合はまた特に「書けないこと」がテーマであるかのような印象だ。

話は石灰工場に妻と二人で住むコンラートという老人が妻を猟銃で殺害し、自分は2日間野壺(イメージがわかない…)の中に隠れていて逮捕され、今は裁判中であるといったようなことだけである。

そもそも「石灰工場」というタイトルからしてプロレタリア文学のようなイメージだ。「石灰工場」という言葉からして健康に悪そうな=非人間的な建物のイメージが喚起されるが、世間から隔絶された場所のデフォルメされた形である。コンラートは人から隔絶されたこの建物に行って自分の研究を執筆することに長年固執してついに実現するのだが、結局石灰工場にはいったことで更に研究は邪魔されてしまうことになる。

それにしても、どうしてコンラートは書けないのか。病気による奇形のため、車椅子生活を余儀なくされている夫人と聴覚の研究に執念を燃やす夫の、一種サディスティックな、どちらがどう虐待しているのかわからないような、バランスをようやく保っている関係が壊れてしまうから、書かないというようなことが後書きに書いてあったが、果たしてそうなのだろうか?彼が言うように延々と邪魔されるからなのだろうか。「書けない」「書けない」という話が延々続くので、逆に「書ける方がおかしいだろう?」という気になってくる。これが作者の術にはまったということか。

自伝五部作とか出ないのかなあと思っていたら、それより戯曲が2作出るらしい。とりあえず、それを待つとしよう。今まで調べたベルンハルトの書誌事項などをまとめたページを作成。戯曲が出たらまたこちらにも追加する。

2006年5月 7日

僕はマゼランと旅した

僕はマゼランと旅した■原題:I Sailed with Magellan : Stuart Dybek, 2004
■著者:スチュワート・ダイベック著,柴田元幸訳
■書誌事項:白水社 2006.3.10 ISBN4-560-02741-2 400p
■感想
結構量は多いが、どんどん読み進めて行って読み終わってしまうのがもったいない気がしてしまう。だから、ゆっくり読んで、繰り返し読んで、そんな、大事な、宝物のような小説だった。長篇ではなく、連作短篇集という、一篇一篇が独立しているが、長さも主役も異なるというスタイルをとっている。
全体として共通しているのがシカゴの下町を舞台にしていること。一応は主人公がいて、その「僕(ペリー・カツェック)」の視点の作品が多いという点では長篇とも言えるかもしれない、一つの世界を形作っている。子供の視点で書かれているところからスタートするので、懐かしさを感じるが、途中から感情移入を許さない厳しさを感じたりもする。みずみずしいが単純にアメリカの子供のお話というわけでもない。ずっと子供の視点だったのが、「胸」で突然登場人物が変わってしまったり、それまで脇役だった人物が突然主役になったりと、一筋縄ではいかないが、乗ってしまえば楽しい作品だ。

「歌」
主人公=僕が子供の頃のお話。僕は母の弟レフティ叔父さんに酒場を連れ歩かれ、そこで「オールド・マン・リバー」を歳のわりに野太い声で歌う。すると、雨あられと小銭が降ってくる。少しずつ、奇妙な叔父さんの半生が語られる。

「ドリームズヴィルからライブで」
弟のミックとの子供の頃のお話。子供の想像力ってやつは、タフだなぁと思う。

「引き波」
兄弟がサーと呼んでいる父親と一緒に海水浴に行く話。父親の父親が精神病院に入っていたことが触れられている。現実的で、ケチで、少し間が抜けていて、カッコ悪いと思っている反面、この兄弟が父親を愛していることが、この後「ケ・キエレス」でも感じられる。

「胸」
突然殺し屋に主人公が移ってしまう。意表を突くが、ペリーやミックとのかかわりが最後の方になってわかってくる。

「ブルー・ボーイ」
下手をするとお涙ちょうだいになってしまう、障害のある少年のお話を、優等生の女の子を交えることでピュアな感動を呼ぶ作品に仕上げている。これは見事。少年の兄の描写がさえている。

「蘭」
僕が高校生になっていて、友達とメキシコへ行こうなんて話をしている。一番みずみずしい青春らしい物語で、オチの間抜けさも、いい感じ。

「ロヨラアームズの昼食」
僕が高校を出る頃のお話。好きなんだけれど、少し暗い印象。

「僕たちはしなかった」
これが一番独立性の高い短篇ではないかと思う。おかしいけれど、哀しい。

「ケ・キエレス」
弟のミックが主人公。中学生で父の転勤に付き合わなければならなかった彼のその後の人生が面白い。

「マイナームード」
短いが、この作品が一番好きだ。すべてにおいてリズミカルで、レフティとおばあちゃんのやりとりや蒸気に曇った窓ガラスが目に浮かぶどころか、その熱気が肌に感じられるほどだ。主人公のことをずっとポーランド移民の3世くらいなんだろうと思っていたが、お母さんのおばあちゃんになるわけだから、主人公は4世になるわけだ。ということで、このおばあちゃんはホンモノのポーランド人なんだろう。子供時代に優しくしてもらった想い出が一つでもないと、人は生きていけないんだろう、と思わせる。

「ジュ・ルヴィアン」
最後は叔父さんで締められている。僕のちょっとした冒険のお話。


出色は「ブルー・ボーイ」や「僕たちはしなかった」なんだろうが、私は「マイナー・ムード」が好きだったりする。また、「欄」「ロヨラアームズの昼食」「僕たちはしなかった」などは主人公が思春期の話だから、当然好きな女の子の話になっていくわけだが(「ブルー・ボーイ」の優等生の女の子も重要だが)、やっぱり僕、サー、ミック、レフティ叔父さんあたりがメインで、どうも女性の存在が薄い。その最たるものが母親がほとんど出てこないことだろう。しかし、「ケ・キエレス」なんかで子供の頃の家庭料理が出てくるところを見ると、一応母親の存在は見えなくはないのだが、ちょっとこういう子供時代がメインの話にしては意外だなと思ったりする。

海外文学を読む人には絶対オススメである。