消去 ある崩壊〈下〉
■原題:Auslöschung; Ein Zerfall by Thomas Bernhard copyright Suhrkamp Verlag 1986
■著者:トーマス・ベルンハルト著,池田信雄訳
■書誌事項:みすず書房 2004.2.5 ISBN4-622-04870-1
■感想
後編は主人公がヴォルフスエックへ帰り、翌日の葬儀までが綴られるのだが、相変わらずの呪詛の嵐である。ただ、過去の回想と、頭の中だけで展開していた前編と異なり、実際に現在進行形で行動するのだが、これがとても間が抜けている。自分が妹たちに要求されていること、以前とは大きく変わってしまった立場などを理解していて、もっと慎重に行動すべきであることを自覚しているにもかかわらず、彼は喋り過ぎるし、間抜けな行動をとる。それに対して後から言い訳を延々続けるのである。
前篇で触れられていたスパドリーニに対する主人公の崇拝が、とても違和感があった。というのも、あれほど母親を俗物扱いしておきながら、その庇護に預かっている長年の愛人を崇拝しているのが、非常に不自然だと感じられたからだ。葬儀の前の夜にやってきたスパドリーニに対しての不信感が現れ、崇拝と軽蔑との揺れ動く気持ちが表現されているところで、不思議と納得行く気がした。
少々笑えたのがゲーテに対する攻撃である。日本人から見るとちょっと疑問に思えるほど、ドイツ文学におけるゲーテは神聖視され過ぎではないかという面も否定できないので、こういう声をベルンハルトのような攻撃性の高い、スキャンダルの多い作家が発するのはある意味当然だろうという気がする。また、彼はドイツ人ではないので、余計に神聖視する必要性がないのだから。彼の言う通り、ゲーテは大ブルジョアだし、お貴族様のような生活をした文豪で、文学的価値の高い作品を書いたことは間違いないだろうが、他国の巨匠に比べると…と言ってしまいたくなるのもわからないではない。そう言ってはもともこもないのだが、「ウェルテルの悩み」は横恋慕のあげくの身勝手な自殺で今ならほとんどストーカーだし、「親和力」はスワッピング、「ヴィルヘルムマイスター」は独文が世界に誇るロリコン作品である…という俗な言い方も出来なくはないのだ。
「消去」というタイトルは主人公がヴォルフスエックに関して書こうとしている伝記というかノンフィクションというか、ともあれ何らかの著書につけられる予定のタイトルである。それを「書く」ということが、主人公がヴォルフスエックを自分の中から「消去」するために行われる作業になる筈だった。だが、実際に主人公はヴォルフスエックを「消去」してしまうのではあるが。「ヴィトゲンシュタインの甥」は叔父と違い、書かない哲学者だったし、「破滅者」のヴェルトハイマーもメモ書き散らすだけで「発表」はせず、すべて燃やしてから自殺する。まるで紙に書き残すなど下劣なやり方だと言わんばかりの人物ばかりなので、ベルンハルト自身は実は多作な作家であることが意外に感じられる。意外と本気でそう考えていて、自虐的な言葉を連ねることに快感を覚えていたのではあるまいか。
最終的にこの主人公が両親に対して抱いていた多くの批判が、彼らが国家社会主義者たちをかくまったことに起因していることが明らかになってくる。戦後のオーストリアにおける元ナチの存在は彼が執拗にワルトハイムを糾弾したことからもわかるように、戦後、ドイツよりも遙かに緩い存在だったようだ。そういった歴史認識の元に、今や忌み嫌っている家を継ぐのかどうか興味を持って読み続けると、なかなか愉快な結末を迎えることになる。
だいたい、この主人公も家と離れればこれほどひどい人生を送らなくて済むのにと思うのだが、中年になっても経済的援助を受けているのだから親兄弟に批判されても仕方がないと、そこは単純に思う。結局本人が認めているように、ヴォルフスエックから逃れようとしてボロボロになってしまったと。ヴォルフスエックに依存しなくては生きられないし、同時に近付きすぎても生きられない。彼の悲劇的な人生の終末は痛快だ。