わがタイプライターの物語
■原題:The Story of My Typewriter: Copyright 2002 by Paul Auster, Work of art 2002 Sam Messer
■著者:ポール・オースター著,サム・メッサー絵,柴田元幸訳
■書誌事項:新潮社 2006.1.30 ISBN4-10-521710-0
■感想
少々重たいのが続いているので、閑話休題。
おそらくはUSの版元の事情により、ポール・オースター/サム・メッサーになっているが、本来は逆だろう。ポール・オースターのエッセイにサム・メッサーが絵を添えているのではなく、サム・メッサーの画集にオースターがコメントを添えているのである。
主役はオースターのタイプライター。今でもオースター自身が執筆に使い続けている現役のタイプライターを、サム・メッサーが絵にしている。作品は最初はリアルなタイプライターだが、次第に怖い絵になってくる。アルファベットの部分が歯のようで、まるで怖い顔のような絵になってくる。それでもどこかユーモラスなんである。
今でもタイプライターを使い続けていることで、人々から偏屈と呼ばれているらしいが、単に本人としては頑固に古いものに固執しているつもりはなく、「数ヶ月の仕事が一瞬でなくなってしまう」(バックアップをマメにとれよ…)という噂やブーンというあのモーター音が嫌いで使わないでいるようだ。でも、今時テキスト入稿は当たり前だろうに、大家だから許されているのかなぁ…と思っていると、実際は最初手書きで、本格的にはタイプライターでうって、最後の入稿はPCでテキストにしているらしい。うわ、面倒な。その最後の工程は本人がやっているとは思えない(そこまでは柴田氏も追求していない)。
日本ではあまりに効果で操作が大変なので和文タイプが普及せず、企業レベルにとどまっているので、本当のところ、タイプライターのポジショニングというのは、よくわからない。おそらくは我々の「手書き」と同じなのだろうが、ちょっと違う気もする。昔先輩に「ちゃんとした挨拶状はやっぱり手書きじゃないとね」とか、「えらい先生にご連絡する場合はどうしても手書きじゃないとね」などと教わったものだった。それなら、まだまだ手書きじゃないとダメな場面はあるのだろう。けれど、タイプライターじゃないとダメな場面というのはあまりないだろう。だから、やっぱり単に偏屈なんだろうな。
私はワープロというやつをまだコンシューマ向けのものが出始めの頃に買った。書院とか、ルポとかそういうやつ。その理由は最初はタイプ代わりだった。学生のときにレジュメで必要だったからで、タイプライターより軽かったからだ。だが、せっかく日本語も打てるので、ほとんどメモリなんかないから一発勝負だったが、使ってみたりしていた。すると、新しいものを使う人間をバカにするヤツは必ずいるもので、「何も日本語までやらなくてもいいじゃねーか」みたいなことを言われた。そういう輩はそれから数年してPC全盛時代になったとき、使えないオヤジになってOLにバカにされていたに違いない。
私は古いものに固執するのは、カッコ悪いと思っている。むやみやたらと新しいものに飛びつくにも確かにカッコ悪いが、ミーハーな方がいろいろと役に立つだけマシだと思っている。私はPCはかなり初期の98note(DOS)から使っている。アナログレコードはCDが出た側から(ジャケットが気に入っているものは残したが)全部買い替えたし、ビデオやLDもDVDになってるものはすでに買い替えている。DVDになっていないものは、一応DVDに焼いてある。カセットテープは全部DATにしたし、その後DATも全部HDD AVプレイヤーに取って代わっている。次々と新しい機械が出てくるので、ついていけないと言う人は好きにしたらいいけれど、自分がそうなったらおしまいだと思っている。
それでも、古いものに、良いものはたくさんある。このタイプライターみたいな機械は、機械としての味わいが別次元だと思う。電気用品安全法のおかげで真空管アンプとか買えなくなるのか…と思うと、トシとったら欲しいと思っていたので、がっくりしている。
ともあれ、オシャレとかステキな、というタイプの絵ではないものの、とても面白い絵ではある。1600円なので、安いし、プレゼントに良いかも。