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2006年3月 7日

ヴィトゲンシュタインの甥

ヴィトゲンシュタインの甥■原題:Wittgensteins Neffe: Thomas Bernhard, 1982
■著者:トーマス・ベルンハルト著,岩下真好訳
■書誌事項:音楽之友社 1990.7.10 ISBN4-276-21411-4
■感想
オペラ界では伝説のパウル・ヴィトゲンシュタインの晩年の友人だったベルンハルトがパウルの死後に刊行したエッセイ。狂人と呼ばれ、精神病院ので精神病院に入退院を繰り返したパウルだが、最初は金銭的にも恵まれた貴族階級の人間として人生のスタートを切った。そして、多くの才能にも恵まれ、音楽にもスポーツにも、生半可でない見識をもつ人物として有名だった。

オーストリアでも最も富裕な一族ヴィトゲンシュタイン家が産んだ二人の異端児、英国で有名になった20世紀の天才・哲学者ルードヴィヒとその甥パウルは、実際は会ったことがあるかどうかもわからないとベルンハルトは書く。しかし、二人には共通点が多くあり、片方は書いて公表し、片方は書かなかったのだと言う。何ものでもない天才というのは、こういう人のことを言うのだろう。

ベルンハルトの毒舌っぷりは痛快である。文学サロン、ヴィトゲンシュタイン一族、精神病院、田舎、なんでもぶった斬り状態である。そして自分自身の「カフェー・ハウス通い」が病気だという自分に矛先が向いていたりもするのがおかしい。どんなに大切な友人であっても「60過ぎの老人に泣きつかれるのはイヤだ」などと正直に言ったりするあたりも笑える。

本作に詰め込まれているいろいろなエピソードの中に興味深いものが多くある。ベルンハルトがビュヒナー賞を受けたときのこと、誰もベルンハルトの顔を知らず、誰も案内出来なかったという。文学サロンを拒否した作家に賞なんかあげるからだと思う一方で、そういう作家に受賞しなければならないオーストリア文学界もまた淋しい時代だったのかと思う。ベルンハルトのような偏屈な作家が賞を受けるというのも傑作と言えば傑作だ。

また、特に1974年にウィーンのベルン劇場で初演された「狩猟仲間」は本来スイスの産んだ天才俳優であるブルーノ・ガンツが主演を演じる筈だったが、劇場のユニオンの拒否にあって実現できなかったというエピソードが興味深い。ブルーノ・ガンツはこの後映画に出て世界に名前が知られることになるのだが、ちょうどこの頃は舞台俳優として完成された頃ではなかっただろうか。もうかなり有名だったことは知っている。同じドイツ語圏と言えども、スイスから出た俳優がオーストリアの一流劇場でオーストリアの俳優を押さえて主演するなど、オーストリア人のプライドが許せなかった

私のウィーンに関する知識は1920年代のもので終わってしまっているが、いくつかのホテルの名前はまだ覚えている。1960年~1970年代のウィーンのエレガントなホテルとカフェー・ハウスの名前がたくさん出てくる。ホテル・ザッハーは「ザッハー・トルテ」で有名なホテルだということはさすがに有名だろう。お菓子の名前も出てきて、ウィーン好きにはたまらないだろう。

ベルンハルトの「真実ではないもの」に対する憎悪、オーストリアが歴史的に背負って行かざるを得ない罪の意識(ナチの被害者のような顔をして、その実協力者も大勢いた)、世紀末の耀きから没落するよりほかない運命。それをペシミズムとは言えないのは、この筆の巧みさ故なのか、あるいは厳しさの中にときおり見えるユーモアのせいなのか。

私は長い間、こういう「真実ではないもの」に対する仮借ない批判を全身全霊で語るようなドイツ文学を好んでいたと思う。それは若い頃、とても自分が強かった頃だと思う。現実にさらされ、弱った心にはこういう過酷な作品に向かい合うには気力が足りず、かといってお気楽な小説にも向けず、後ろ向きな話なのに、何故かポジティブな変なアメリカ文学にはまっていたりした。そこからとんでもなく遠くへ遠くへと行けるラテンアメリカが好きになり、多分、今ある意味ではまた強くなれているんだろう。楽しめる余裕が出来ている気がする。