熊座の淡き星影
■原題:Vaghe stelle dell'Orsa...
■制作年・国:1965年 イタリア 100分
■監督:ルキノ・ヴィスコンティ
■製作:フランコ・クリスタルディ
■脚本:ルキノ・ヴィスコンティ/スーゾ・チェッキ・ダミーコ/エンリコ・メディオーリ
■撮影:アルマンド・ナンヌッツ
■音楽:セザール・フランク
■助監督:リナルド・リッチ
■出演:クラウディア・カルディナーレ(サンドラ)/ジャン・ソレル(ジャンニ)/マイケル・クレイグ(アンドリュー)/レンツォ・リッチ(ジラルディーニ)/マリー・ベル(コリンナ)
■参考サイト:ケーブルホーグ
■内容
ジュネーブのホテルの一室で、新婚のドーソン夫妻が友人を招いてお別れパーティを開いている。夫のアンドリューはアメリカ人、妻のサンドラはイタリア人で、二人はニューヨークで新生活を始めるためジュネーブを発つ。だが、直接アメリカには向かわず、サンドラの故郷であるイタリアはトスカーナ地方にあるヴォルテッラに行く。
サンドラの父親は彼女が幼い頃、ユダヤ人であることをナチに告発され、強制収容所で殺されている。実家の広大な屋敷の庭に有名な科学者であった父の銅像が建ち、その庭を町に公園として寄贈することになっている。その銅像の除幕式があるため、サンドラは帰郷したのである。
サンドラの母親は鬱病で入院していたが、最近は義父のジラルディーニの別邸に隔離状態となっている。サンドラには弟がいたが、この弟ジャンニが二年前からしばしばこの家に帰って来ている。ロンドンでゴシップ記事を書いているが、義父からもらう小遣いと自分の稼ぎでは生活費が足りないため、ときどき帰郷しては屋敷の美術品・骨董品を売っていたことを打ち明ける。
サンドラは母と当時愛人だった弁護士・ジラルディーニが父親を告発したものと信じており、子供の頃から兄弟は義父と母を憎んでいる。アンドリューは彼らを和解させようとジラルディーニを夕食に招くが…。
■感想
「山猫」とゲルマニア三部作の間に挟まれた小品。100分というのは、3時間が通常のヴィスコンティ作品の中では小品と言って良いだろう。ミステリー仕立てだが、ナチズムの爪痕や家族の崩壊といったテーマが取り上げられ、神話的な世界を醸し出しつつ、家族の中での愛憎劇を展開している。モノクロ作品だからよけいおどろおどろしい。
オープニングはドイツ語、英語、フランス語が飛び交う明るいパーティ・シーン。近代的な都市ジュネーブからイタリアのトスカーナ地方にある地方都市ヴォルテッラへのドライブはまるでロード・ムービーのようだ。昼間のきつい陽光が強調されていて、華やいだ雰囲気がある。ところがヴォルテッラに到着し、屋敷に入ると、クラウディア・カルディナーレの顔が怖い。昔の美人というか…細眉にする筈がもとが太すぎてできなかったのか、つけまつげが長すぎる。そして目の下にまでふちどりがある。それ故目のふちが全部黒い。とても怖い。野性的というよりは獣のような、それでいてどこか人間離れした神聖なムードを醸し出している。
屋敷に入ってからずっとミステリアスな展開が続く。何故フィレンツェの親戚は電報で会いたくないと言って来たのか。弟は姉の結婚式に病気と嘘をついて出席しなかったのか。そして弟との出逢い。この二人何かあるぞ…といった妖しいムードでいっぱいである。
この姉弟を見ていると、「恐るべき子供たち」を思い出さずにはいられない。近親相姦的な妖しい雰囲気と相手に対する異常なまでの執着。何よりも子供時代から解放されず、密室的な関係を今でも保ちたいと思い、大人になることを拒否している点が似通っているように思える。ただ、コクトーと違い、弟の方が姉に執着しているのだが。
ギリシャ神話のオレステス神話(母とその愛人により父を殺されたオレステスが二人に復讐する話)から着想は得ているが、ジャンニは義父を憎んで復讐などはせず、サンドラ(=エレクトラ)の父への深い愛情に神話が反映されているようだ。エレクトラ・コンプレックスはエディプス・コンプレックスの対比語のようなものだ。父への愛情は、自分のユダヤ人の血への誇りにつながり、裏切り者の母に対する憎しみの根源となっている。
しかし、本当に義父と母が父親を告発したのかどうかは曖昧にされている。それと同時に、ジラルディーニが言うサンドラとジャンニの「近親相姦」もサンドラは噂にすぎないと夫に断言しているし、否定しない弟は姉を奪われたくないが故の芝居かもしれないと思わせる。
姉は弟を心から愛していたが、噂に絶えられず、古い忌まわしい過去から逃れたくて町を出た。近代的な都市ジュネーヴで通訳の仕事をして自立した生活を送っている。そこへ健康的で快活で単純なアメリカ青年と出会い結婚する。彼女の中では過去と現在が戦っていたが、結局は現在が勝利を収める。ところが弟の方は過去から逃れられない。旅をし、たくさん恋をしても、あの濃密な時間は取り戻せない。どうしても姉に執着する。姉に捨てられたら自殺すると姉を脅す。しかし、姉にとっては弟は「もう死んだも同然」の過去である。弟は現在を生きることも未来を生きることも出来ず、自ら命を絶つしかない。
いったん夫は去るが、ニューヨークに来るのを待つという手紙を残しており、サンドラも夫のもとへ行くつもりになる。弟が自殺したことを知ったら、本当にニューヨークに行くのかどうか、弟の死を彼女に知らせるところで映画は終わっているため、そこまでは触れられていない。だが、おそらくは彼女はアメリカに行き、そして二度とイタリアには帰って来ないだろう。
資料「ヴィスコンティ秀作集 7 熊座の淡き星影」には撮影に入る前のシナリオと映画から起こした完全版のシナリオの2本が収録されているが、驚くほど異なる点が多い。特にラスト、過去から逃れて屋敷を去るのは弟で、姉は屋敷に取り残される。夫のところにも行かないだろうし、夫も迎えに来ないだろう、という結びになっている。
プロデューサーのフランコ・クリスタルディはヴィスコンティとは過去に「白夜」を一緒に作っていて、その後「若者のすべて」の前に大喧嘩して別れたが、「山猫」撮影中にクラウディア・カルディナーレと結婚、ヴィスコンティとも和解した。自然の流れのようにクリスタルディの方から妻を主役にしてくれれば映画の資金を提供すると申し出があり、俳優を育てることにかけては絶大な自信と熱意をもっていたヴィスコンティは一も二もなく引き受ける。そしていつものスタッフと脚本を作るのである。彼女を育てるだけでなく、自らの歴史的な認識としての反ナチや家族の崩壊劇といったテーマともしっかり取り組んでいる。
ヴィスコンティは偉大な芸術家だが、同時にチャンスを逃さないで映画を製作するということについては非常にビジネスライクで、うまくやっていると思う。映画製作とはそういったもので、まるで金勘定が出来ない偉大な映画監督など、おそらくいないのだろう。大作を作ると、「あの監督は大作しか作れない、金がかかる」と言われないように低予算映画を撮影したり(白夜)、金のかかる映画を作りたいが故にハリウッドから資金調達をし、条件であるアメリカ人俳優を過去のキャリアにないほど素晴らしい役としてはまり役にしてしまったり(山猫)。
クラウディア・カルディナーレもそうだし、ソフィア・ローレンもそうだが、夫に映画プロデューサーを選ぶということは、女優として最大のメリットがある。監督では駄目だろう。自分のために映画を作らせ、自分のために素晴らしい監督を引っ張ってこさせるとは、女優冥利につきるというものだ。イタリア人、みんなしたたかだなぁ。