白夜
■原題:Le Notti Bianche
■制作年・国:1957年 イタリア
■監督:ルキノ・ヴィスコンティ
■製作:フランコ・クリスタルディ
■原作:ドストエフスキー「白夜」(角川文庫 1958.4.15)
■脚本:スーゾ・チェッキ・ダミーコ/ルキノ・ヴィスコンティ
■撮影:ジュゼッペ・ロトゥンノ
■音楽:ニーノ・ロータ
■助監督:リナルド・リッチ
■出演:マルチェロ・マストロヤンニ/マリア・シェル/クララ・カラマイ/ジャン・マレー
15億リラ、1年もの撮影期間をかけたテクニカラーの大作「夏の嵐」の次は再びモノクロでスタジオのみ7週間で撮影された「白夜」となる。舞台となるペテルブルクを架空のイタリアの港町におきかえ、幻想的な夜の世界を描いた。
この街に転勤してきたばかりのサラリーマン、マリオは上司の家族に連れられて行ったピクニックの帰り、運河にかかる橋でナタリアと出会う。ナタリアは1年前に別れた男を待っている。マリオはナタリアに恋をし、ナタリアの方もマリオに好意をもつ。二人の3日間の夜の出来事を語る映画だ。
トルストイの原作では主人公のマリオが20代の夢想家の青年で、ナタリアは17歳のこれもまた夢想家の少女である。ナタリアの方はそのままだが、マリオの方は普通のお人好しの青年になっている。マストロヤンニも「女性と話すのは苦手だ」と言っているが、そこはイタリア男。しゃべり出せばとても口説き上手で、原作の青年とはひどくかけ離れているところが、少しおかしい。
私はマルチェロ・マストロヤンニが大好きなんだけれど、一番好きなのはやはりフェリーニの「甘い生活(1959年)や「8 1/2」(1963年)のあたり。「白夜」はかなり近い年代なのだが、ちょうどこの頃までは「人の良い青年」役ばかりで、ちょっとニヒルか、あるいは情けない中年へと移り変わる時期だったのだろうか、あまりおもしろみがない。マリア・シェルの方も同様30過ぎだったが、見たところ20代前半、下手すれば17歳~18歳に見える。ひどくわざとらしい、ウブな小娘っぷりが、意図的な演出であることはわかったが、それにしてもコケティッシュさがどうにも勘弁していただきたく。それに比べてクララ・カラマイの妖艶だこと。ヴィスコンティによると、「郵便配達は二度ベルを鳴らす」のラストでジョバンニは実は事故で死んでいなくて、15年経って刑務所から出てきて娼婦に身を落としているのだそうです。存在感っていうのはこういうことですか。ジャン・マレーはウブな小娘が一目惚れするほどハンサムですか?単に怖いんですけど。
ヴィスコンティは意図的に舞台空間のように見せている。書割というか、箱庭というか、いかにもセットを組みましたという感じで、移動も実に少ない。それがまた様式美にあふれていて幻想的なのでとても良い。しかし、この雰囲気をどうにもマストロヤンニのまぬけ顔がぶちこわしているような気がしてならない。彼だけが何故か現実の生き物のように見えてしまう。ナタリアの話を「おとぎ話だ」と言いながら、そのおとぎ話に参加してしまうマリオ、という設定の筈だが、ちっとも「あちら側」に行ってないような気がする。ナタリア、ナタリアの祖母、下宿人らが作り出すおとぎ話のムードと少々合っていないように見える。これも意図的なのだろうか。「異邦人」もそうだが、どうもマストロヤンニとヴィスコンティは相性が悪いようにしか思えない。
とても不思議に思ったのは、あのダンス。まるで1950年代のアメリカのようだ。いわゆる「ロックンロール」をこの幻想的な作品の中にとても強い印象を残すように入れ込んでいるが、なんだかおかしな感じがする。ダンサーの青年ディック・サンダースはとても印象的だが、少々気味が悪い。オペラの幕間のバレエのようなものか。ナタリアが自分を解放するきっかけとして使っているのはわかるのだが、他のダンスじゃダメだったのかな。どうも軽薄な印象を残してしまう。
この作品、全体的にはとても暖かな作品で、ヴィスコンティ作品にはめずらしくハッピーエンドである。うん。これはハッピーエンドですよ。