最近読んだ本、見た映画・芝居、聞いたCD

2005年1月

2005年1月29日

ベリッシマ

ベリッシマ■原題:Bellissima
■制作年・国:1951年 イタリア
■監督:ルキノ・ヴィスコンティ
■製作:サルヴォ・ダンジェロ
■脚本:スーゾ・チェッキ・ダミーコ/フランチェスコ・ロージ/ルキノ・ヴィスコンティ
■撮影:ピエロ・ポルタルーピ/ポール・ロナルド
■助監督:フランチェスコ・ロージ/フランコ・ゼフィレッリ
■出演:アンナ・マニャーニ/ヴァルテル・キアーリ/ティーナ・アピチェッラ


ヴィスコンティ、唯一の喜劇映画(オムニバス「われら女性」を除く)であり、2時間以下の作品。ネオレアリスモ映画であることは確かだが、それはともかく、イタリア映画が得意とする下町人情ものだ。それはそれで好きだが、ヴィスコンティらしくないので、あまり期待はしていなかった。しかし、意外と良い映画だった。

アンナ・マニャーニは「郵便配達は二度ベルを鳴らす」で起用しようとしたが、撮影開始直前に妊娠が発覚したため降りてもらったという経緯があり、この作品を制作のサルヴォ・ダンジェロから持ち込まれたとき、マニャーニなら撮るといったくらいだから、よほど気に入っているのだろう。ロベルト・ロッセリーニ監督の「無防備都市」の主役でネオ・リアリスモの代表的な女優と言われ、「バラの刺青」でアカデミー主演女優賞も受賞している国際的にも有名な女優である。このとき40過ぎくらいの年齢だったが、このウエストを維持しているのはすごい。もちろん巨乳だってしっかりと形が保たれている。女優魂だなぁ。

マニャーニが扮するのは5歳の娘と夫の3人でアパートに住んでいるマッダレーナ。医薬分業のイタリアでは注射の資格をもった看護婦に注射してもらわなくてはならない。彼女は腕の良い看護婦で、患者の家まで出張し治療をして稼いでいる。彼女はたくましく、よく喋り、生活力があって家族思い。中年になっても色っぽいが意外と貞節でまじめ。感情の起伏が激しく、怒るし泣く。でも、プライドはとても高く、押しが強い。イタリアのおかみさんと言えば、彼女が元祖だ。イタリア下町人情ものはやっぱりいいなと思う。とにかく、見ていて元気が出る。ヴィスコンティを見終わったら何かまた見よう。

この映画、要はマニャーニの演じる母親が娘を映画のベリッシマ(美少女)コンテストに合格させようと奮闘するステージママぶりが描かれている。詩の朗読をさせたり、バレエを習わせたり、写真を撮ったり、衣装を作ったり、ローマ中を駆けめぐる。娘のアンナはとてもかわいいが、母親の言われたままにけなげに頑張っているだけで、やりたくてやっているわけではない。母親の方は娘の幸せのためと固く信じ、貧しく無教養であるがゆえの自分と同じ苦労はさせたくないとばかりに、猪突猛進する。

マッダレーナは撮影所に出入りする青年アノヴァッツィと知り合い、コネとして使おうとするが、彼からコネをつかむためには必要だと大金を要求される。家を買うという夢があって貯金したお金だが、娘のためならと即座に支払う。だがアノヴァッツィはそれで自分のバイクを買ってしまう。マッダレーナはアノヴァッツィにだまされたことはすぐにわかるが、決して恨みつらみを言うわけではなく、娘が合格するという結果が出ればそれでいいと言い放つ。「昔から人が良く騙されやすいと言われる」と、あっけらかんと笑ってみせる。娘が必ず受かると信じているからだ。豪快だなぁ。でも、しっかり試写に潜り込めるように手配もさせた。

アノヴァッツィの母親も彼に自分の果たせなかった夢を託し、期待を寄せてあれこれと指図するという。彼が紹介した撮影所の編集係の女性もかつてはちょっとした女優だったが、ちやほやされていい気になって、突然ほされてしまったという話をする。そういった話を聞きながら、少しずつマッダレーナの中に疑問が生まれる。

マッダレーナは無理に頼んで監督やスタッフたちがコンテストで撮影したフィルムを見ている姿を映写室から覗く。スクリーンに映った娘は何度吹いてもろうそくの火を消せないし、詩の暗唱もできず、そして泣き出してしまう。それを笑うスタッフたち。アノヴァッツィも金をもらっているくせに「フィルムの無駄」と言い放つ。監督だけは笑っていない。マッダレーナは嘲笑に耐えられず、スタッフらに対して娘が笑い者にされたことに怒りをぶつける。そしてよろよろと撮影所を出て行く。娘は疲れて眠ってしまい、マッダレーナは泣きながら娘を抱きしめる。

このシーンなのだが、確かにひどいのだ。誰も泣いている彼女をなだめようとすらせず、ひたすらフィルムを回し続けるのが特にひどい。結局マッダレーナの娘が採用されることになり、支払ったのよりも遙かに大金が入ることになるのだが、即座に断る。「今度はどうやって娘を笑いものにするつもり?」と。

マッダレーナは最後になってようやく気づく。娘のためにと思ってやってきたことが、娘のためにはならないということが。映画界にいるひどい連中をみて、こんなところに入れることは出来ないと思ったのだろう。自尊心を傷つけられることが何よりつらい。そして、何が本当に娘のためか、やっぱりわかることができるのだ。

夫も彼女がアパート購入資金を使ってしまったことを責めず、なぐさめる。彼女はこれから死にものぐるいで稼いで家を買うと言い切る。やっぱり生活力もある女性はカッコいい!「昨日、今日、明日」のソフィア・ローレンも自分で稼いで、マストロヤンニを食べさせていたっけ。


この映画の中でアパートの広い中庭で映画上映が行われている。ローマっ子は映画が好きなのは知っているが、これはすごい。壁をスクリーン代わりにして、映写機で写しているのだと思うが、誰か映画の好きな人が主催しているのだろう。家庭にテレビがある時代ではないので、これが大事な娯楽なのだろう。マッダレーナも映画が大好きだ。だから映画に出られるということは、本当にすてきなことだと思いこんでいるのがよくわかる。無知だが素朴で愛情たっぷりのイタリア女性を満喫した。衰退の美学を見ようと思っていたヴィスコンティ全集だが、まるで違う方向で楽しんだ一本だった。しかし人間の尊厳は下町の無学な女性でも、貴族でも同じだから、プライドの高い人間を描くところは、やっぱりヴィスコンティらしいとも言えるだろう。

2005年1月26日

揺れる大地(海の神話)

揺れる大地(海の神話)■原題:La Terra Trema - Episodio del mar
■制作年・国:1948年 イタリア
■監督:ルキノ・ヴィスコンティ
■撮影:G.R.アルド 
■助監督:フランチェスコ・ロージ/フランコ・ゼフィレッリ
■出演:アントニオ・アルチディアコノ/ジュゼッペ・アルチディアコノ/アントニーノ・ミカーレ


戦後、舞台演出に集中していたヴィスコンティが満を持して撮った作品で、単独の監督作品としては6年ぶりの第二作目。登場人物に実際の漁師たちを使い、ドキュメンタリータッチに描いた、なるほど、これがネオ・レアリスモの決定版というわけか。

舞台はシチリアの貧しい漁村アーチトレッツア。若い漁師アントーニは網元の搾取に苦しむ漁師たちに組合を結成して魚の卸値の交渉をするが、騒動になり警察に捕まってしまう。網元は漁師がいないと仕事にならないため、保釈させる。アントーニは自分たちで魚を直接売って網元の搾取を受けないようにしようと呼びかける。アントーニは家を抵当に入れて借金をし、自分たちで自営し始めるが、リスクを恐れて誰も続かなかった。アントーニ一家は好漁に恵まれ、鰯を塩漬けにして値が上がるのを待とうとする。しかし時化の日に漁に出て、船の帆も網もなくしてしまう。商売道具を失ったため、漁ができなくなり、困窮していく姿を描いている。

それにしても2時間40分もの長丁場、バラストロ一家の隆盛と没落の姿をじっくり見せてくれた。が一家が没落していくのを描く時間の方が長いのだ。導入で1/3使い、少しだけいい目を見せてあげて、あとはじわじわと悲惨に落としていく。後年のヴィスコンティを考えると、実にらしいなと思う。労働者の団結を訴えている映画にはとても見えない。つまらないプロパガンダ映画はやっぱりヴィスコンティは撮らない。

映像がとても貧しい人たちを描いているにしては美しい。汚らしさや猥雑さがなく、非常に厳かだ。モノクロの海や畑にたなびく風といった風景が荘厳ささえ感じさせる。厳しい風景だが、やはり美しい。

ところで、バラストロ一家は大勢いいるので、少し整理してみたい。
アントーニ(祖父)=ショックのあまり倒れて入院
名知らない(母)=いつも黙って見守っている
アントーニ(長男)=ネッダにふられる&アル中→雇われ漁師
コーラ(次男)=密輸業者に連れられれて家出
マーラ(長女)=左官のニコラとの結婚を諦める
ルシア(次女)=警察署長の慰み者になり、誰も結婚してくれなくなる
あとは子供:ヴァンノ(三男)、アルフィオ(四男)、?(三女)、赤ん坊(四女)
総勢10人の家族と思われる

家を抵当に入れたために銀行に取られてしまうほど落ちぶれたが、この一家は嵐に遭うという運が悪かっただけだ。村人たちは何故彼らを村八分にするのだろう?仲買人を恐れて、というのは理解できるのだが、仕事を与えないところまで追いつめるのは何故だろう?貧しい人たちの連帯などは幻なのだということを、仮借なきまでに見せつけられる。アントーニが立ったとき、リスクを恐れて連帯できない面はあっただろうが、ほんの一時の成功を妬み、同情心すら覚えない。貧しさは心の卑しさになるのかもしれないと思わせる。

女の目から見ると、アントーニは傲慢で無知で無責任だ。リスクを負ってやったのだから、失敗したらプライドは捨てて働かないと、一家を背負う資格はない。生活の手段をもたない女たちや小さな弟たちはどうなるのだろう。無知というのは、どうして保険に入らなかったんだろうな。稼ぐ道具に何かあったらどうするとか考えないんだろうか。それともそこまで余裕がなかったんだろうか。みんなのためという前に自分の家族のことを考えないのは傲慢だし、見栄っ張りだ。

直接的には関係ないが、イタリアの庶民っていうのはどうしてこう子だくさんなんだろう。カソリックだから産児制限できないという問題もあるのだろうが、この一家の父親が死ぬまで母親は子供を産み続けたことが、一番下の子が赤ん坊であるところから見てとれる。

この映画、最初から私の中では「聖バルバラの漁民一揆」のイメージがあった。戦前の貧しい漁村を描いている点で共通しているが、あれは団結と挫折の物語だった。これは団結しないまま早急に一人で戦った若者の挫折の物語であると言えるだろう。

強情を張っていたアントーニも最後はプライドを捨てて漁師に戻る。私はこれは希望だと思う。仕事に戻っても再び搾取されるだけだし、漁師たちはそうやって生き続けるしかないのだろうけれど、仕事をするということは、とにかく生き延びるということだ。生き延びればまだ希望が出てくるかもしれないし、よそへ移動できるかもしれない。ラストのアントーニの厳しい顔が神々しく見える。

2005年1月24日

郵便配達は二度ベルを鳴らす

■原題:Ossessione
■制作年・国:1942年 イタリア
■監督:ルキノ・ヴィスコンティ
■原作:ジェームズ・ケイン
■出演:マッシモ・ジロッティ/クララ・カラマーイ/フアン・デ・ランダ/エリオ・マルクッツオ

ヴィスコンティのDVDボックスをついに全部買ってしまった。新品だが、平均すると定価の半額程度で購入できた。ずっと昔に数本見たが、うろ覚えのため、一から見るのも良いかなと思ってしまったのがまずかったか。

本作は確かに見た記憶がある。先に1981年のラファエルソン監督版、あのジャック・ニコルソンと油ののったジェシカ・ラングの方を見てしまったため、こちらの方はどちらかというと印象は「もっとうまいことやればいいのに…」というもの。つまり「貧困と無知が産み出した悲劇」であると。カラーだったせいか、どうしても81年版の方がシャープに感じられた。

あらためて見ると、本当にていねいな演出だなぁと感心させられる。2時間20分の長いバージョンだったせいもあるのだろうが、じっくりと見せる内容になっている。

この映画が「イタリア・ネオレアリスモ」の先駆だったことは映画史的に重要なことだとは思うが、戦前のイタリア映画など見たことがないため、私にはピンと来ない。それより、“男女の情愛から来る確執・憎悪・転落”等は後のイタリア映画、特にベルトリッチあたりの雰囲気が満載。
ジャック・ニコルソンが悪人ヅラだったせいか、ジロッティの方が女に絡め取られて身動き出来なくなってかわいそうの度合いを強く感じた。裁判の場面がないせいもあるな。あれがあるとこの二人が愛し合っていたなんて、ウソっぽい、という感じがあるから。この映画だと、確かに情愛の方が先に走るけれど、二人の愛にウソはないと感じられ、それが一層悲劇性が高く見える要因になっている。愛は美しいというような意味ではなく、打算より欲望の方が強く、その欲望に捕らわれて盲目になっているという意味で。原題の"Ossessione"の意味は「妄執」。「妄想に執着する」とはすごい言葉だ。

演出のポイントになったのは、二人の出逢いのシーンと、直接言葉では言わないものの、ジョヴァンナがジーノに夫殺しを依頼するシーン。二人の出逢いのシーンで、ジョバンナがジーンに言う。「馬のような肩ね」。これがまた明らかに情欲に捕らわれた目をするジョバンナ。実際、いくら肉体労働者である機械工とは言え、放浪している身分でそんなに大量に食べているとも思えないのに、その肉体はなんだ?というマッシモ・ジロッティの身体つき。クララ・カラマーイの細い身体が対照的だ。そして、殺意を本気で感じたらこうなるのか、殺人を依頼するシーンではジョバンナの目の色が本当に光ったように見える。これが怖い。

ジーノにとっては旅=自由、女=束縛であり、一度は自由を取り戻したが、結局逃れられずぐずぐずしていたら、運命に追いつかれてしまい夫殺しをすることになる。この後、良心の呵責に耐えられず店を手伝うことができない。ジョバンナの望みはまず、今の生活を続けること。でも今の夫はイヤでジーノが良い、という順番。そのため店を売るという選択肢は実は最初っからない。生命保険が出ようが出まいが関係がない。女にとっては「旅」という選択肢はない。だが、よそへ移って店をやるという選択肢ならあるのになぁと。事件後のジーノの様子を見ていれば最初っからそうすればよかったのに…というあたりが「無知による悲劇」なんだが。

殺人後も旅か安定かで悩むジーノを再び誘いに来る「スペイン人」。この人物は原作になく、ヴィスコンティの創作だそうだが、ジーノにとって旅=自由の象徴といえるだろう。が、実際はどう考えても怪しい。わざわざ密告する人物を最初に事故を発見したトラック運転手の他に作る必要性はなく、明らかに同性愛的な演出で登場させているのだ。いくらお金がないからと言って、男二人が同じベッドに寝るかね…マッチを擦ってジーノが寝たことを確認するあたりが、すごく怪しい。後のヴィスコンティらしさが出ている。

それに対し、ちょっと浮いた登場人物である踊り子の方はジーノの苦しみを一度は浄化させ、更に逃亡を助けるという役割を担っていて、存在として価値が高い。そして最後に登場する下働きの少女。彼女に「オレは悪人か?」と尋ねるジーノが哀しい。結局は「自分が悪人である」という罪の意識から最後まで逃れられないのだ。しかし、女の方は悪いという意識は最後までもてず、子供を産む夢を見るのだから、恐ろしい。

途中、舞台がフェッラーラに移る。私が知っているフェッラーラはミケランジェロ・アントニオーニの「愛のめぐりあい」だけだが、比較的最近見たばかりなのでなんとなく親近感がある。

なおこの映画、郵便配達は出ない。原作にも出てこない。事故が二度起こるあたりで何となくわかったが、詳細については下記サイトで。
「あの映画のココがわからない まとめサイト」

2005年1月21日

ユリイカ 詩と批評 特集:翻訳作法

■青土社 2005年1月号(第37巻第1号)

海外文学愛好者であれば、誰か好きな翻訳者がいるだろうと思う。昔っから話が翻訳になると、すぐに誤訳の話になってしまうのだが、この手の話がどうも好きではない。自分が原文で読めれば読むのだから、読めないから翻訳に頼るのだ。一生懸命訳してくれた翻訳者には基本的に感謝しなくては、と思う。

柴田元幸という翻訳界のスターが登場したおかげで翻訳家というものにもずいぶんと脚光が浴びるようになったものだと感慨深い。柴田氏のすごいところは、実は第一はその翻訳量ではないかと思っている。ポール・オースターなんて序の口で、スティーブン・ミルハウザーからなんから、何しろものすごい量なのだ。次に選択眼。昔、村上春樹の訳したものを追いかけて読んでいる英米文学愛好家がいるという話を聞いたことがある。私はさしずめその逆で、村上春樹が訳したものは絶対に自分は好きにならないだろうから、という理由で避けている。私にとってはそうだとは限らないが、彼の翻訳したものを追いかけている人のことは、さほど間違っていないと思う。

アンケートにあった岩淵達治先生の「ばらの騎士」の翻訳が過去の誤訳を全部払拭しているから素晴らしいというお言葉、らしいなぁ(笑)と思った。よく誤訳については怒っていたなぁ。翻訳家が他人の誤訳について怒るのは、それはありですよ。
興味深かったのはそれぞれ「いつかは訳してみたい」と思っているものという質問に対する答え。
野谷文昭氏が「非現実的希望」と断っているが、ガルシア=マルケス全作品の個人訳ってあなた…それは…思うだけで無謀。とりあえず、最新作だけでも、どうでしょうか?
安藤哲行氏、レイナルド・アレナスの「ふたたび、海」の訳、期待してます。

2005年1月16日

陽水伝説 PART III

驟雨 井上陽水 操上和美NHK 2005.1.15
1. Just Fit (1992)
2. Makeup Shadow (1993)
3. 嘘つきダイヤモンド (1995)
4. ありがとう (1997)

「井上陽水空想ハイウェイ」再放送に引き続き放送されました。1990年代のビデオクリップを4曲。陽水の解説つき。

操上和美氏が撮影したという「Just Fit」だけど、これは「驟雨」(スウィッチ・コーポレーション 1992.3.18)という写真集の写真と同じ。この写真集はもう絶版ですね。でも、自分は高いパンフレットのつもりでコンサート会場で買ったので、普通に売られていたのかどうかも実は知らないのだけど。

「えーちょっとこの川を流されてみて」なんて、陽水に言えるなんて、それだけですごい人だったんだなぁ、操上氏は。
「Makeup Shadow」とか「嘘つきダイヤモンド」とか少しばかり懐かしい曲のクリップ。「ありがとう」のビデオクリップは初めて見たのだけど、民夫ちゃんと4人で麻雀をやっている絵がメインで、残り二人は両レコード会社の社長という変な組み合わせ。まだ後藤氏なんだろうか…。そういやフォーライフの販売権は大昔にSMEのものになってしまっていたっけなぁ。単なるレーベルに成り下がってしまったFORLIFE MUSIC ENTERTAINMENTをレコード会社と呼んでいいのだろうか。

情報サイト
コラムーチョ「陽水伝説Part3」

井上陽水 空想ハイウェイ ActIII

YOSUI TORIBUTENHK 2004.12.25(2005.1.14再放送)
出演:井上陽水、司会:小林聡美、ゲスト:平原綾香、一青窈、布袋寅泰、奥田民夫

★1.マスカレード/井上陽水
★2.心もよう/平原綾香
○3.真珠/井上陽水(~ACT I?)
○4.いつの間にか少女は/持田香織(~ACT II)
★5.ジェラシー/一青窈
○6.タイランド・ファンタジア/井上陽水(~ACT I?)
×東へ西へ/布袋寅泰
×アンチ・ヒロイン/井上陽水
○7.ミスキャスト/井上陽水(~ACT I?)
×いっそセレナーデ/小野リサ
○8.傘がない/UA(~井上陽水ハローグッドバイ 2000)
★9.リバーサイド・ホテル/奥田民夫
○10.少年時代/忌野清志郎(自宅スタジオで撮影したビデオ)
★11.最後のニュース/井上陽水
×Winter Wonderland/井上陽水

★は新たに録画されたもの(と思われる)
○は前に放送したものの再録
×は音楽だけで映像はなし

陽水が変な仮装とデコレーションされたスタジオでゲストを迎え、小林聡美の助けを借りてお送りする音楽番組。昨年12月25日に放送されたが、見逃してしまっていて、やっと再放送をやってくれました。「YOSUI TRIBUTE」の発売後だけに、いろいろなアーティストが登場してくれました。
スタジオに実際に来たのは平原綾香、一青窈、布袋寅泰、奥田民夫の4人。持田香織とUAは以前に出ているので、今回はビデオのみ。清志郎もビデオ出演で、小野リサが手紙だけということでした。

陽水は「自分は裸の王様になっているのではないだろうか」という妙な不安を覚え、「自分の悪口を言ってくれ」と言われた若手アーティストも困っていましたが。一青窈がいうところの「あの…ときどき踊ってらっしゃいますよね」。「要するにあれは変だから、やめろと。」という陽水のお返事がよかったです。あれは確かに変ですが、自然と出てくるのですから、仕方がないですね。

布袋くんも、陽水に呼び出されていたんですね。彼は若手のアーティストに興味をもつと、自分から声をかけて飲みに行くそうな。「九段」に収録されている「アンチ・ヒロイン」は布袋寅泰の曲ですが、何年も寝かされていたんですね。しかし、フォーライフのドル箱だった今井美樹を引き抜いていったのは彼なんですけど…いいんですかね。
沢田研二に提供した「ミスキャスト」はそう言えば「クラムチャウダー」にしか入っていませんでしたね。あまり聴いたことがなかった。

民夫ちゃんは今回かなり無理して歌ってるなぁと思ったら、やっぱり元歌よりキーが高かったんですね。清志郎の「少年時代」は自分で選んだのではなく、歌えと言われたとのこと。丹下左前はなかなか良かったかと思います。

それにしても小林聡美が良かった。陽水だけだったら、ぐちゃぐちゃになっているところを、うまくまとめていた。誰が相手でもマイペースな人は司会向き。誰か彼女に音楽番組の司会をやらせてください。
ところで、最後の"Winter Wonderland"はどこに入っているんでしょうか?「歌う見人」でもなかったし…

「井上陽水空想ハイウェイ ACT III」に関する情報:
コラムーチョ
Jalan Straight View通信

2005年1月14日

空腹の技法/ポール・オースター

ポール・オースター 空腹の技法■著者:ポール・オースター著,柴田元幸,畔柳和代訳
■原題:The Art of Hunger and other essays, 1992
■書誌事項:新潮社 2003.8.1 (新潮文庫) ISBN4-10-245108-0

単行本読んだし、持ってるし、いいやと思って油断していたら、3篇ほど追加されているという。うう~もったいないが買おう。うん。買って損はなかったと思う。

序文集の終わりに「心配の技法」「家庭人ホーソーン」「見えない作家ジュベー」の3篇が追加されている。「心配の技法」は『マウス』で知られる漫画家(風刺画家?)アート・スピーゲルマンについての文章。

「家庭人ホーソーン」はホーソーンが子供や妻について書いたノートブックの序文。あの暗~い鬱々としたナサニエル・ホーソーンの意外な一面について教えてくれる。これが長い文章で相当引用してくれるので、なかなか面白い。

「見えない作家ジュベール」はフランスの哲学者というか作家というか、箴言家とも違うし、なんとも肩書きがつけがたいが素晴らしい文筆家であるジョゼフ・ジュベールについて書いた文章。

2005年1月 7日

BOSE SoundDock(続報)

BOSE SoundDockBOSE SoundDockはメーカーは「iPodPhotoでは使えません」と言っているが、実際はどうなんだ?問題。悩んでいるのが面倒くさくなって、結局Apple Storeに発注してしまいました。年明けすぐに来ました。

・SoundDockに付属の各種インサートの中から、タッチホイール30/40GB用インサートを使えば対応できる。→OKでした。
・実際はインサートなしで再生できる。→そうなんですが、ちょっと不安定です。

音はどうでしょうか。他のと比較していませんが、私としては納得です。3万円の音か?と聞かれると、ちょっと不安ですが、ラジカセよりはいいので、ま、ブランド力ということでいいにしましょう。

あ、私ってば初めてのBoseだわ。意外と言えば意外。高校1年生のとき、学校のBoseを買いにいきました。先輩たちに連れられて、初の秋葉原でした。MITという名前やボーズ博士とかの名前を教えてもらいました。懐かしい…

2005年1月 5日

魔法の書

魔法の書■著者:エンリケ・アンデルソン=インベル著,鼓直、西川喬訳
■原題:El Grimorio, 1961 : Enrique Anderson Imbert
■書誌事項:国書刊行会  1994.11.25 ISBN4-336-03597-0
■内容
魔法の書
将軍、見事な死体となる
ツァンツァ
亡霊
船旅
事例
身軽なペドロ
空気と人間

屋根裏の犯罪

水の死
決定論者の妖精
授業
ファントマ、人間を救う
解放者パトリス・オハラ
アレーホ・サロ、時のなかに消える
森の女王
ニューヨークの黄昏

■感想
何となく、アルゼンチンの作家だし、国書刊行会だし、文学の冒険シリーズだし、という気楽な感じで古書店で買ってしまった。あぁしまった。考えてみりゃそりゃあそうだ。今まで知らなかったアルゼンチンの作家なんだから、幻想文学に決まってるじゃん。南米文学好きのくせに、ボルヘスなど純(pure)な幻想文学がいまいち苦手だ(カサレスはそうでもないが)。理由は主に三つ。「短篇ばかり」(嫌いじゃないけど、長篇の方が好き)。「難しい」(のもあるし、そうでないのもあるが、難しい方が多い)。
三つ目は「時々気持ち悪いのがある」幽霊譚などは全然嫌いじゃないのだが、例えば本書でいうところの「将軍見事な死体となる」のカニバリズムや「ツァンツァ」の干し首の作り方など。何しろスプラッターがダメだ。「魔法の書」や「ニューヨークの黄昏」も別の意味で気持ち悪い。終わりのない物語とか、誰かの夢の中に自分が登場するので、夢から覚めたら消えてしまった、とか。うー怖いなぁ。
と文句言うわりには、それなりに楽しんでいたりするから、この手の本は不思議だ。こういうのを質が高いというんだろうか?

2005年1月 4日

チェ・ゲバラふたたび旅へ―第2回AMERICA放浪日記

チェ・ゲバラふたたび旅へ―第2回AMERICA放浪日記■著者:エルネスト・チェ・ゲバラ著,棚橋加奈江訳
■原綴:Otra Vez: El Diario I&eacuite;dito del Segundo Viaje por América Latina (1953-1956) by Ernesto Che Guevara
■書誌事項:現代企画室  2004.11.25 ISBN4-7738-0410-6
■内容
チェ・ゲバラふたたび旅へ―第2回AMERICA放浪日記
写真による証言
付録

■感想
本書及び「チェ・ゲバラ モーターサイクル南米旅行日記」「チェ・ゲバラAMERICA放浪書簡集―ふるさとへ1953~56」と3作合わせて“チェ・ゲバラ キューバ革命参加以前の記録”とでも呼ぼうか。本書は「モーターサイクル南米旅行日記」の続編ともいうべき日記で、グラナードと別れ、マイアミに行って1ヶ月間動けなくなったりしていろいろあったものの、何とかアルゼンチンに戻った後のお話。半年強ほどで学位を取得して、グラナードのところへ行って仕事をするという一応の目的の元に再び旅に出たゲバラの日記及び資料集。「ふるさとへ1953~56」も同一の時期のものだが、こちらは家族にあてた書簡集。本書の資料の中にある書簡と重なる部分が多いため、詳細に比較したわけではないが、まぁ言ってみれば本編だけ読めばいいくらいな感じである。
最初の旅のときと違い、自分で生計を立てるという前提をもちながらの旅である。いずれ帰って学校に戻ろうと考えていたときとはやはり違う。単に「世界が見たい」という熱望だけで動いたときよりは、かなり自覚的に自分の将来を模索しているように見える。
いずれにせよ、出発時点でのゲバラは医者の資格は得たが医者になるつもりはあまりなく、ただ何かをやる上で人の役には立つ技術だろうな、くらいにしか考えてないように見える。それより、南米大陸で行われている不正・不正義をただすという目的のために、自分は何がいつ出来るのかを模索していた時期だと言えるかもしれない。とにかく、目的のためにはいろいろな人にあって、いろいろな話を聞いて勉強しつつ、自分を必要としている場所を探している、といった風情だ。結局メキシコでカストロたちに会うことで時節を得たというか、自分の生きるべき場所を見つけたというか、自分を役立てる革命に出逢えたわけだが、革命の起こりそうな国にやってきて、革命を横目で眺めつつ、あまり好ましからざる外国人ということで退去させられたりしている。横目で眺めつつとは言え渦中にいられたのは勉強には役に立っただろう。生計を立てるために苦労したり、あまり変化のない日々を送ったりもしている。ペルーの活動家と(おそらく)出来ちゃった結婚したりもしているが、すぐに別れたりと、いろいろやってはいる。
あれだけ功あり名のある人なので後世からなんとでも言えるが、当時の人から見たら、単に騒動を探してうろついている不逞の輩以外の何者でもないな。だから最後は革命が成就しある程度安定したキューバを去って、ボリビアに行っちゃったりするんだけど。

結論から言うと、前回の旅よりはおもしろみに欠けるが、ゲバラ研究の資料的価値はあるだろう。私はあまり革命家チェ・ゲバラに興味があるわけではなく旅行記が読みたかったので、予想の範囲ではあったが、少々不満。が、まぁ読んで損はないなぁというくらいの感じだ。