世界文学のフロンティア 5 私の謎
■著者:今福龍太編
■書誌事項:1997.2.10 岩波書店 ISBN4-00-026145-2
■内容
〈わたし〉をめぐる揮発性の原理(今福龍太)
だれでもない人々(フェルナンド・ペソア著,菅啓次郎選・訳)
雨に踊る人(アルトゥーロ・イスラス著,今福龍太訳)
暗闇にとりくむ(ジミー・サンティアゴ・バカ著,佐藤ひろみ,菅啓次郎訳)
『ヴォルケイノ』より(ギャレット・ホンゴー著,菅啓次郎訳)
シャム双生児と黄色人種―メタファーの不条理性を通して語る文化的専有とステレオタイプの脱構築(カレン・テイ・ヤマシタ著,風間賢二訳)
『ザミ 私の名の新しい綴り』より(オードリー・ロード著,有満麻美子訳)
記憶の場所(トニ・モリスン著,斎藤文子訳)
『私の父はトルテカ族』より(アナ・カスティーリョ著,今福龍太選・訳)
裸足のパン(ムハンマド・ショクリー著,奴田原睦明訳)
写真に抗して(アンドレイ・コドレスク著,菅啓次郎訳)
物語の終り(レイナルド・アレーナス著,杉浦勉訳)
■感想
レイナルド・アレナスの「物語の終り」を読みたくて買ったのだが、ついでに他の作品も読んでみると、これがまた非常に濃い。一作ごと読むのがたいへんだ。全体のトーンとして、何らかの形でマイノリティに所属するたちの物語である。
フェルナンド・ペソアはポルトガルの詩人。ヴェンダースの「リスボン物語」で言及されていたのを思い出す。アルトゥーロ・イスラスはメキシコ系アメリカ人(チカーノ)文化の先駆者。ジミー・サンティアゴ・バカもやはりチカーノで、自伝的なエッセイ「暗闇にとりくむ」の暗闇とはチカーノたちがみなもっている暗闇を正面から見つめたものだ。
「ヴォルケイノ」のギャレット・ホンゴーはハワイの日系三世だが、幼いうちにロサンゼルスに転居し、ティーンエイジャーの時代をそこで過ごし、大学以後、アメリカの諸都市に住む。「ヴォルケイノ」では結婚してハワイに帰って暮らしていた頃のことが描かれている。祖母は日本人の芸妓だった。そしてその息子である自分の父親の孤独な人生。ホンゴーの日本人としての系譜、ハワイ人の系譜、そしてアメリカ人としての育ち。最終的に「帰郷」した気持ちを見つけるまでの物語である。
カレン・テイ・ヤマシタの小説も何というか、複雑なもので、ヤマシタの書いた小説に対する論文という形式をとっているが、そんな小説はもちろんない。論文の注がマジメに探すと実は本物も混じっているらしいが、私には当然わからない。アジア系アメリカ人だ。
オードリー・ロードは黒人でレズビアン。またまた二重の意味でマイノリティ。今でこそ「黒人」はマイノリティなのか?だが、1960年代だから、それはもうマイノリティだ。詩とノンフィクションを書くので、どうも小説はないようだ。この作品が当初の目的だったアレナスを除くと一番面白かった。
「裸足のパン」はアラビア語で書くモロッコ方面の作家。悲惨な物語だが、こういうピカレスク文学は大好きだったりする。
さて、アレナスだが、遺稿集の中の一品で、美しいが死の予感に充ち満ちた、少々陰鬱な作品。この人はエネルギッシュなものばかりなので、こういう静かなものは意外だった。もっと翻訳出ないかな。
もう最近は国際情勢が複雑で、○○という国の作家、というのは意味をなさず、○○語で書く作家という表記をするよりほかない。独文は昔からそうで、スイス、オーストリア、ドイツの三国にまたがるので、私たちは「ドイツ語で書く作家」だと教わって来た。旧ユーゴや旧チェコ・スロヴァキアも、それぞれ言語があり、何語を選択するかも作家の主義主張や背景を映し出すため、非常に重要な要素になる。