ガルシア=マルケス新作 Memoria de mis putas tristes
マルケスの新作発売-10年ぶり、スペイン語圏で
ラテンアメリカ文学の巨匠マルケス、最終修正で海賊版も退治
めでたい!やぁやぁ。生きててよかったす。
でも「私のメランコリーな娼婦の想い出」‥?。
どこか手を出してくれないかなぁ。国書刊行会でも集英社でも何でもいいから。
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2004年10月
2004年10月25日
マルケスの新作発売-10年ぶり、スペイン語圏で
ラテンアメリカ文学の巨匠マルケス、最終修正で海賊版も退治
めでたい!やぁやぁ。生きててよかったす。
でも「私のメランコリーな娼婦の想い出」‥?。
どこか手を出してくれないかなぁ。国書刊行会でも集英社でも何でもいいから。
■The Motorcycle Diaries
■公式サイト 2004年 アメリカ=イギリス
■スタッフ・キャスト
監督:ウォルター・サレス
出演:ガエル・ガルシア・ベルナル、ロドリゴ・デ・ラ・セルナ、ミア・マエストロ
■感想
原作「モーターサイクル南米旅行日記」を2002年に読んでいた。とても面白かったので、あれが映画になったと知り、公開をずっと楽しみに待っていた。10月9日に公開だったが、自分の家の近くで公開したのが23日だったので、ようやく見ることができた。原作は現代企画室から出ていたが、角川書店から文庫で出ていたり、それに対して現代企画室から増補改訂版が出たりと、混乱している。買うのだったら、安いからとりあえず角川書店からのでいいと思う。
ただ、映画に比べるとちょっとそっけない。この旅をともにした、アルベルト・グラナードの本が出ている。こちらは映画を見てからと思って手元にあるがまだ読んでいない。この本がなかったら、映画のような色づけはできなかったんじゃないかなと思う。チェ・ゲバラは生真面目だからな。恋人から預かった15ドルの件なんかゲバラの日記にはまるで出てこない。
映画の方は期待通り素晴らしいものだった。久しぶりに幸せな映画空間を味わったような気がする。ロード・ムービー好きで、南米フリークなので、たまらないです。実際は退屈なものらしいが、パンパをバイクで突っ走るシーンとか、雪のアンデス越えとか、ペルーの険しい山々とか‥。そういう映像に酔ってしまう。大きなスクリーンで絶対見たいと思っていたので、これはDVDじゃあダメだと思う。
話もバカバカしいほど無茶な旅で、荷物が多いし、バイクはボロだし、お金はないし。年少の生真面目な青年と年長の口のうまい男のなかなか面白いコンビの珍道中として見ても楽しい。多数の旅行記を読むにつれ、南米はバイクで旅するのが一番時間と距離感が良いと以前から思っていたが、そう思ったきっかけがこの話だったなと思い出したりする。特に喘息もちなのに、湖に飛び込んだり、無茶ばかりするゲバラにはらはらさせられる。実際は途中で薬が切れてしまったりして、大変だったようだ。彼は喘息があるからこそ、体を痛めつけるスポーツを好んでやっていたらしい。
ゲバラはこの旅行の前から3~4週間の単位でアルゼンチン国内をバイクで旅していたりしたが、これが国外に出た初めてのバイク旅行だった。南米の貧しい現実を見て、中産階級の息子から脱皮し、革命家・ゲバラが作られていくきっかけになった旅であることは確かなようだ。古来からイニシエーションのためには放浪の旅がいい。ほとんどが事実だが、あのアマゾン川を泳ぐ話は書いてなかったと思うのだが、そういった細かいところは、グラナードの本を読んでからにしよう。いずれにせよ映画はこの旅がイニシエーションのための旅であることを、ゲバラがアマゾン川を泳ぐシーンを入れることによって強調したかったのだと思う。ハンセン病患者の隔離されている川の中の島へ渡るため、誰も泳いだことのない川を泳いで越えることによって、何かを越えることが出来たのだと思う。原作でも筏をもらう話はとても印象に残っていたので、この辺がクライマックスに来るのは正しいなと思った。
どうも最近スペイン語圏の映画で面白そうだなと思うと、ガエル・ガルシア・ベルナルが出ている。「天国の口、終わりの楽園」もそうだったし、次に見たいなと思っている「ブエノスアイレスの夜」もそうだし。しかし、「ブエノスアイレスの夜」なんかは2001年の作品なので、この作品より前のものだ。彼の人気が出たので、見られるようになっているという面もあるんだろうと思う。ありがたいことだ。
それにしても、アメリカ=イギリス合作映画で全編スペイン語ってすごいな。
2004年10月24日
■著者:今福龍太編
■書誌事項:1997.1.10 岩波書店 ISBN4-00-026143-6
■内容
死者の百科事典―生涯のすべて(ダニロ・キシュ著,山崎佳代子訳)
海岸のテクスト(ガブリエル・ガルシア=マルケス著,旦敬介訳)
最後の涙(ステーファノ・ベンニ著,和田忠彦訳)
一分間(スタニスワフ・レム著,長谷見一雄訳)
災厄を運ぶ男(イスマイル・カダレ著,平岡敦訳)
ユートピア奇跡の市(ヴィスワヴァ・シンボルスカ著,沼野充義訳)
ゆるぎない土地(ヴォルフガング・ヒルビッヒ著,園田みどり訳)
魔法のフルート(ボフミル・フラバル著,赤塚若樹訳)
かつて描かれたことのない境地(残雪著,近藤直子訳)
コサック・ダヴレート(アナトーリイ・キム著,有賀祐子訳)
ハーン=ハーン伯爵夫人のまなざし―見えない都市(エステルハージ・ペーテル著,早稲田みか訳)
金色のひも(アブラム・テルツ著,沼野充義訳)
■感想
「夢」を扱っていると単純に考えると幻想文学のアンソロジーのように一瞬思われるが、テーマは「ポスト・ユートピア」である。「実現されたユートピア」であるロシア革命に対する反ユートピア文学は社会主義批判の作品である。そしてその後の文学は?ということになる。となると単純に旧東ドイツの作品かと思われるが、そう簡単なくくりでもない。確かにこの中の「ゆるぎない土地」は旧東独出身の作家の手によるものだし、チェコやロシアから亡命した作家の作品もあるのだが‥。
ガルシア=マルケスの「海岸のテクスト」を読みたくて買ったのだが、これは本当にほんの一部だった。なんだか不動産情報誌に載っている「吊り」の物件のようだが、他がはずれてないので文句はない。印象に残ったものだけ。
「死者の百科事典」は死んだ人のすべての行動を記録した百科事典。全員掲載されているわけではないが、対象となった人物の誕生から死までをとある委員会が影ながら見守って報告し、まとめたものだ。非常に詳細なディティールを客観的に記述したものとなっている。これを娘が読む話だが、どこかで同じようなアイディアの作品を読んだことがあるような気がするのだが思い出せない。多分ラテンアメリカ作家の短編だと思うのだが‥。ダニロ・キシュはセルビア語で書く作家というか、旧ユーゴスラビアを代表する作家。東京創元社から同名の短編集と「若き日の哀しみ」が刊行されている。
「最後の涙」はイタリアの作家。学校が舞台の作品はどうも苦手なんだな。学校が嫌いだったわけじゃないが、教師が嫌いでね。「聖女チェレステ団の悪童」は売れたようだ。
「災厄を呼ぶ男」のイスマイル・カダレはアルバニアの作家。映画「ビハインド・ザ・サン」はイスマイル・カダレの小説「砕かれた四月」を原案としたもの。この映画の監督は「モーターサイクル・ダイヤリーズ」のウォルター・サレス監督だったりする。ご縁だなぁ。この人の作品は単行本で出ている。
「ゆるぎない土地」は前述のように旧東独出身の作家の手によるもの。他の訳出されたものは
「魔法のフルート」はチェコの作家、故ボフミル・フラバルはちょっと読んでみたいと「世界×現在×文学 作家ファイル」を読んで思っていた作家だ。雑誌「すばる」のチェコ特集とこのアンソロジーにしか入っていないのが残念。単行本出ないかなぁ。こちらのホームページに作品が掲載されている。
2004年10月13日
■著者:今福龍太編
■書誌事項:1997.2.10 岩波書店 ISBN4-00-026145-2
■内容
〈わたし〉をめぐる揮発性の原理(今福龍太)
だれでもない人々(フェルナンド・ペソア著,菅啓次郎選・訳)
雨に踊る人(アルトゥーロ・イスラス著,今福龍太訳)
暗闇にとりくむ(ジミー・サンティアゴ・バカ著,佐藤ひろみ,菅啓次郎訳)
『ヴォルケイノ』より(ギャレット・ホンゴー著,菅啓次郎訳)
シャム双生児と黄色人種―メタファーの不条理性を通して語る文化的専有とステレオタイプの脱構築(カレン・テイ・ヤマシタ著,風間賢二訳)
『ザミ 私の名の新しい綴り』より(オードリー・ロード著,有満麻美子訳)
記憶の場所(トニ・モリスン著,斎藤文子訳)
『私の父はトルテカ族』より(アナ・カスティーリョ著,今福龍太選・訳)
裸足のパン(ムハンマド・ショクリー著,奴田原睦明訳)
写真に抗して(アンドレイ・コドレスク著,菅啓次郎訳)
物語の終り(レイナルド・アレーナス著,杉浦勉訳)
■感想
レイナルド・アレナスの「物語の終り」を読みたくて買ったのだが、ついでに他の作品も読んでみると、これがまた非常に濃い。一作ごと読むのがたいへんだ。全体のトーンとして、何らかの形でマイノリティに所属するたちの物語である。
フェルナンド・ペソアはポルトガルの詩人。ヴェンダースの「リスボン物語」で言及されていたのを思い出す。アルトゥーロ・イスラスはメキシコ系アメリカ人(チカーノ)文化の先駆者。ジミー・サンティアゴ・バカもやはりチカーノで、自伝的なエッセイ「暗闇にとりくむ」の暗闇とはチカーノたちがみなもっている暗闇を正面から見つめたものだ。
「ヴォルケイノ」のギャレット・ホンゴーはハワイの日系三世だが、幼いうちにロサンゼルスに転居し、ティーンエイジャーの時代をそこで過ごし、大学以後、アメリカの諸都市に住む。「ヴォルケイノ」では結婚してハワイに帰って暮らしていた頃のことが描かれている。祖母は日本人の芸妓だった。そしてその息子である自分の父親の孤独な人生。ホンゴーの日本人としての系譜、ハワイ人の系譜、そしてアメリカ人としての育ち。最終的に「帰郷」した気持ちを見つけるまでの物語である。
カレン・テイ・ヤマシタの小説も何というか、複雑なもので、ヤマシタの書いた小説に対する論文という形式をとっているが、そんな小説はもちろんない。論文の注がマジメに探すと実は本物も混じっているらしいが、私には当然わからない。アジア系アメリカ人だ。
オードリー・ロードは黒人でレズビアン。またまた二重の意味でマイノリティ。今でこそ「黒人」はマイノリティなのか?だが、1960年代だから、それはもうマイノリティだ。詩とノンフィクションを書くので、どうも小説はないようだ。この作品が当初の目的だったアレナスを除くと一番面白かった。
「裸足のパン」はアラビア語で書くモロッコ方面の作家。悲惨な物語だが、こういうピカレスク文学は大好きだったりする。
さて、アレナスだが、遺稿集の中の一品で、美しいが死の予感に充ち満ちた、少々陰鬱な作品。この人はエネルギッシュなものばかりなので、こういう静かなものは意外だった。もっと翻訳出ないかな。
もう最近は国際情勢が複雑で、○○という国の作家、というのは意味をなさず、○○語で書く作家という表記をするよりほかない。独文は昔からそうで、スイス、オーストリア、ドイツの三国にまたがるので、私たちは「ドイツ語で書く作家」だと教わって来た。旧ユーゴや旧チェコ・スロヴァキアも、それぞれ言語があり、何語を選択するかも作家の主義主張や背景を映し出すため、非常に重要な要素になる。