最近読んだ本、見た映画・芝居、聞いたCD

2003年12月

2003年12月25日

手紙の行方

手紙の行方■著者:山口智子
■書誌事項:ロッキングオン 2003.5. ISBN4-86052-017-3
■感想
スカパーで「Letters―彼女の旅の物語」という番組があったのは記憶しているが、見たことはない。7年間ドラマに出ていない女優・山口智子が企画・出演する紀行番組らしい。その中で5番目のチリ篇のロケハンに行ったときの話。写真も文章も全部著者のもので、しかも一人でのロケハンだったようだ。この後1ヶ月後にスタッフを連れて撮影に舞い戻ったらしい。
基本的にタレント本なので古本でもあると思う。2,000円はソフトカバーだと思うと高いが、中にカラー写真が多いし、地図は豪華だし、まぁ許すか。私は南米紀行本はだいたいOKだが、ジャングルばかりを撮影したような「自然」中心の写真集とかはあまり好まない。けど普通の人の普通の暮らしと街の話なら何でも読む。


  1. トルコ篇(O.A 2000.12.25〜2001.1.31)
  2. スペイン・ポルトガル篇(O.A 2001.3.14〜4.30)
  3. アイルランド篇(O.A 2001.9.1〜11.15)
  4. アメリカ・ニューオリンズ篇(O.A 2002.3.1〜5.15)
  5. チリ篇(O.A 2002.7.1〜9.15)
  6. ハワイ篇(O.A 2003.1.1〜3.15)

「チリ」と言うが、本人たちは「チレ」と呼んでいる。私たちが「ジャパン」だの「ハポン」だの自分の国を呼ばないのと同じ。チリという国は何気なくアルゼンチンの横に横たわっていて、何となく親しみの持てる国だ。実体験としてはメンドーサで大量のチリ人に親切にしてもらったこと、強い目的意識のないまま、たまたまアコンカグアを見たことくらいだが…。南北に長く地域によって気候が大きく異なること、美人の多いこと、ネルーダを生み出した国だけあって詩を好む文化があること、農業大国で食料は海の幸、山の幸ともに豊富なこと、アジェンデとピノチェトの時代、ホセ・ドノソが好き…等々。まぁまぁ一般的な日本人よりは私は多少は知識があるのかもしれない。
チリかぁ。パタゴニアは行ってみたいんだけど、トレッキングは大変そうで、実際私には無理だろうな。飛行機でこんなふうに飛ばすしかないよな…でもやっぱり、見たいは見たい。KOTA HUJANというところと、南米自転車旅行の写真とかが雰囲気は伝えていると思います。
さて、この本の著者の素直さには驚くばかり。女優・山口智子じゃなくて、20代の女性の旅行記だと思うと良いかもしれません。それにしては仕事前提だからな…トラブルとか全然なくて「わーすごーい」の連続で、順調すぎ。旅行記として面白いとは言い難い。ただ、その地方の雰囲気を伝えるにはその素直さは良かったと思いますが。
本当のところ「演技」が嫌いで、女優なんかやらないで済む立場になって、けどCMには相変わらず出ていてもらうもんはもらっていて…。そんな感じで、別に何ら問題はないと思いますが「何かしなきゃ」と思う焦燥感から旅に出て。企画持ち込みで仕事にしちゃうあたりはえらいな。ただ、39にもなって「そんな大人になりたい」は情けないだろうとは思いますが、しょうがないのか。青短出て朝の連ドラデビューして順調に女優だけしかやってなかったから、そんなもんかもね、と。
とりあえずDVDが出たら見たい気はする。何せペンギン出てくるし。
そう言えば1月2日の正月恒例・久世の向田邦子ものに本人役で女優復帰するらしい。多分、女優やってる方が良いと思うよ。

2003年12月20日

やっぱり猫が好き 2003

やっぱり猫が好き 2003■2003.12.17 ポニーキャニオン
■感想
もたいまさこ、室井滋、小林聡美の3人の本当に今!という感じの絵柄ですかね。2003年9月22日放送分、「3人じゃ無理無理!」(脚本:福田雄一)「あの日に帰りたい!?」(脚本:山田あかね)の2本収容。特典映像はインタビュー、撮影風景など、本編と同じくらいの長さがあります。あと、カレンダーは嬉しかったかな。相変わらず衣装がかわいい3人です。
「北の国から」は20年同じスタッフとキャストで続いて、スタッフの一部が定年になるから終了になったそうですが、「やっぱり猫」も15年同じスタッフとキャストで続いているそうで、第二のCX系長者番組になるんでしょうか?まぁ、2年に1度のスペシャルくらいで続いていくのなら、いいんじゃないでしょうか。相変わらずだなーというのを確認するだけでも。ちなみに、もたいさんと小林聡美はいまだに同じ事務所ですね。

僕とゲバラとラティーノたち―ラテンアメリカ放浪記

僕とゲバラとラティーノたち■著者:樋口聡
■書誌事項:スリーエーネットワーク 1999.7.1 ISBN4-88319-136-2
■感想
ちょっと古い旅行記ですが、まぁ、いいかなと。4ヶ月のうち3週間分をキューバ滞在にとっておいて、それ以外の3ヶ月と1週間でアルゼンチン→南米各国→アメリカ、アメリカ→中米→各国キューバというのはちょっと急がし過ぎです(本人も文中に何度も書いてますが)。ほとんどがバスに乗っての移動ばかりで、あまり面白くないです。ゲバラだってバイクだったんだし、人とふれあうチャンスはどんどん減りますよね。少々盛り込み過ぎでは?
最近紀行ものが好きなのは、自分が自由に動けないからです。読む方としては別にガイドブックとして読んでいるつもりはまったくないので、移動手段が何なのかはとても気になります。飛行機は論外。徒歩/バイク/車/バスの順番で好きです。まぁ、だいたいにおいて荷物の多さと期間によって決まるようです。できるだけ長い期間のものが読みたいとは思います。荷物の多いもので、徒歩なんだけど、ロバと馬がついたパターンが面白かったのでした。
あまりに駆け足なので、ちょっとキューバに落ち着いたときの同著者のものも読んでみないと、確かに素人とは違う紀行文かどうかは判断つきませんね。

2003年12月 8日

レノン・レジェンド

レノン・レジェンド■ジョン・レノン 2003.10.29 東芝EMI
■感想
どうやら映画「イマジン」はDVD化されてないらしい…私の記憶にはあるんだけどな…とりあえずLDで出てるのに何故?というのは非常に疑問です。もし本当に出てないとしたら、こういうのとかgimme some truthとかいったDVD出してる暇があれば「イマジン」出して欲しいな。いずれにせよ、「ヘルプ」「マジカル・ミステリー・ツアー」の品切れ状態を考えるにつけ、とりあえずDVDって買っちゃえ!みたいな勢いで買ってしまいました。そいで一応命日に見ないとね、ということで見ましたが…
なんだかなぁ…さんざん使い古した素材を再編集したり、曲の作られた年代を無視した写真を入れられても、ね。「ビューティフル・ボーイ」や「ウォッチング・ザ・ホイールズ」のように家庭用ビデオで撮影された未発表映像は確かに貴重でありがたいのですが、あまりにも画質が悪くてどうもね、と思いますね。「スターティング・オーヴァー」のように2001年にちゃんと監督をつけて編集されたビデオクリップはさすがに品質が良いけど。
こんなんだったら5年に一度くらい「ハッピー・クリスマス」の新作を作り続けてはどうでしょう?今回、湾岸とかアフガンとか新しい戦争が映像として挟み込まれることで「War is Over」になってないことが端的に表現されています。新作のネタがあるということ自体がこの曲が否定されているわけですから、すごく矛盾してますが、その方がまだ全然有意義な気がしてしまいますね。


  1. イマジン
  2. インスタント・カーマ
  3. マザー
  4. ジェラス・ガイ
  5. パワー・トゥ・ザ・ピープル
  6. 冷たい七面鳥 (コールド・ターキー)
  7. ラヴ
  8. マインド・ゲームス
  9. 真夜中を突っ走れ
  10. 夢の夢
  11. スタンド・バイ・ミー
  12. スターティング・オーヴァー
  13. ウーマン
  14. ビューティフル・ボーイ
  15. ウォッチング・ザ・ホイールズ
  16. ノーバディ・トールド・ミー
  17. ボロード・タイム
  18. 労働者階級の英雄
  19. ハッピー・クリスマス (戦争は終わった)
  20. 平和を我等に

2003年12月 3日

予告された殺人の記録

予告された殺人の記録■Cronaca di una morte annunciata 110分 イタリア/フランス ヘラルド・エース=ヘラルド 1988.7公開
■スタッフ
監督:フランチェスコ・ロージ Francesco Rosi
製作:イヴ・カセール/フランシス・ヴォン=ブーレン
製作総指揮:ジャン=ジョゼ・リシェール Jean-Jose Richer
原作:ガブリエル・ガルシア=マルケス Gabriel Garcia-Marquez
脚本:フランチェスコ・ロージ Francesco Rosi/トニーノ・グエッラ Tonino Guerra
撮影:パスクァリーノ・デ・サンティス Pasqualino De Santis
音楽:ピエロ・ピッチオーニ Piero Piccioni
出演:ルパート・エヴェレット Rupert Everett/オルネラ・ムーティ Ornella Muti/ジャン・マリア・ヴォロンテ Gian Maria Volont/アントニー・ドロン Anthony Delon/イレーネ・パパス Irene Papas/アラン・キュニー Alain Cuny
■感想
社会派で名高いイタリアのフランチェスコ・ロージ監督が上記ガルシア=マルケスの作品を映画化。南米はコロンビアの川沿いの田舎町、外国人の金持ちの息子に見初められ結婚した娘が、その初夜に処女でないことから追い帰される。それを知った娘の兄達は彼女を問い詰め、相手の男が近所に住む青年サンチャゴだと分かる。彼らは家の名誉を守るため青年の殺害を予告する、というストーリー。
映画の「語り手」であるお医者さんは小説では一登場人物にすぎませんが、実在しています。彼が主人公のサンチャゴと親友であることは事実として、このお医者さんが村に戻って来て再度調査を行う、という筋立てになっています。

映画の方が男性陣の情けなさが強調されていると思います。ビカリオ兄弟の名誉の回復が何故必要だったのか。これがラテンアメリカのマチスモなんでしょう。それにつけてもマチスモ(男性優位主義)とはあまりにも男性が弱いから作られたものじゃないかと疑いたくなるくらい、こういう南米映画では女性が強く描かれています。止められる立場にいた町長や神父らは何のかんの言ってちゃんと止めず、当のビカリオ兄弟ですら非常に情けない。必死で止めようと動くのは母親たちです。婚約者の母親、カフェの女性などなど。特にバヤルド本人が最高に情けない。そんなに悲劇の主人公を気取るのなら、追い返さないで事情を聞いて受け止めてやればよかったのに。
多くの人に予告され、止めようとする人もいるのに何故事件は起こったのか、映画では下記のように見えるように処理しています。


  1. サンチャゴは実は(家の女中に)恨まれていたので意図的に知らされていなかった
  2. 結婚のお祝い=「祭り」の延長のように「殺人」をとらえ、人々が殺人を期待したからではないか?という疑問符が投げかけられている

小説に比べると絵としてわかりやすい方向に流れているのは致し方ないでしょう。サンチャゴがあまりに「ぼんぼんでたらし」っぽい風貌のアラン・ドロンの息子であるが故に少々「アンヘラに名指しされてもしょうがない」風情があるという点はありきたり過ぎな気もしますが…。広場で遠巻きに見ている人々がまるで劇場の観客のようで、追いかけるバヤルド兄弟と逃げるサンチャゴが舞台の上の登場人物のようです。
アンヘラとバヤルドのデートがジャングルの川上りというところが南米っぽいというか、ワニが泳いでるすぐそばでデートするんだ…というのがちょっと鼻につくというか。また、無垢の象徴である白(サンチャゴ)と黒(バヤルド兄弟)の対比があまりにも美しすぎて、南米の臭いはあまりしません。イタリア映画ですね。南米を描くのならもう少しほこりくさくないといけないのでは?と思いました。きれいすぎます。

予告された殺人の記録

予告された殺人の記録■原題:Crónica de una muerte anunciada : Gabriel García Márquez. 1981
■著者:ガルシア=マルケス・ガブリエル著,野谷文昭訳
■書誌事項:新潮社 1997.12.1 ISBN4-10-205211-9(新潮文庫)
■書誌事項:新潮社 1983.4.1 ISBN4-10-509004-6(新潮世界の文学)
■感想
予告された殺人の記録
何故今頃こんな作品…という理由を説明するとちょっと面倒なのですが、一応自分用の記録なので記載しておかないと。下の映画の方が主体です。以前LDで買っておいたのに、何となく見ないままでいたので、DVDになってない所有LDチェックをしていて引っかかったものです。原作の方は更に以前に読んでます。ガルシア=マルケス本人が住んでいた故郷のスクレという街で1951年に起こった事件です。著者は当時はすでに故郷を離れていたのですが、新聞でこの事件を知り、急ぎ故郷に帰って調査したものの、ビカリオ家(殺害した方)と親戚だったためマルケス本人の母親が反対し発表することが出来なかったようです。それを30年後に再度調査し発表したのが本作品です。
映画も小説も同じテーマなのですが、「何故このような不可思議な事件が起きたのか?」を追求しています。そういうとミステリーみたいですが、小説の方はドキュメンタリータッチのノンフィクションノベル風ですし、映画の方は美しい芸術作品に仕上がっています。
非常に不可思議な事件における世界観を自分用にメモっておきます。


A.【小説及び映画内での前提となる価値観】…下記の価値観が絶対的に存在します

  1. 結婚したら花嫁が処女じゃなかったから家に戻される/戻さないとならない
  2. 上記は花嫁の家にとっては非常に不名誉である。不名誉の原因となった者に復讐することは名誉を回復するために必須である

B.【これは微妙な価値観】

  1. 名誉の問題は個人の問題なので、止めてはならない→止めようとする人もいるためこれは絶対じゃない
  2. 己のアイデンティティを守るためには名誉を回復しなければならない(A-3の次に来るもの)→予告しまわって、誰かに止めてもらおうとする/途中で逃げようとする

C.【物語を複雑にしている要因】

  1. アンヘラが名指ししたサンチャゴは嘘である可能性がきわめて高い
  2. ビヤルド家は今一つ貧しいけれど、サンチャゴの方は金持ち
  3. アンヘラがバヤルドを結婚するときは愛していないが、その後本当に愛し始めた


A.を前提としない場合はじゃあ誰がこういう事件を引き起こしたのかという問題が簡単にクリヤになります。まずは処女じゃないので家に戻さないといけないという価値観が崩れるため、バヤルドが原因ということになります。これは新しい価値観をもって外部から入って来た人間なので、これくらいクリヤして、従来の世界を打破した存在にならないといけないのですが、脱していない。
次に、復讐する必要性もなくなるので、殺したビカリオ兄弟が原因ということになります。これが一番単純な原因です。が、そんなこと言っても無駄ですね。A.については絶対的な価値観として君臨するわけですから。ここのところは「何故?」と思う方が圧倒的だと思いますが、今からだと50年前のコロンビアですから、もうキリスト教は人々の生活に密着し、かつ非常に重要な存在で、処女性を重視するのは当然の価値観でしょうね。この辺りが作家としての著者の興味を大いにひいたことでしょう。

では、多くの人に予告され、止めようとする人もいるのに何故事件は起こったのか。小説ではアラビア系の富裕階層であるサンチャゴと貧しいビカリオ家の対立構造をもって「差別」「妬み」といった感情をベースにしています。また、複雑に偶然のすれ違いと人々の作為や回避の意志などを積み重ねて構築し、まるでサンチャゴの死が必然だったかのような緊迫感あふれる筋運びとなっています。母親がドアを閉めてしまったり、心の底では止めて欲しかった、ビカリオ兄弟の必死の願いが聞き届けられなかったのは、もはやサンチャゴとビカリオ兄弟の宿命だったとしか思えません。

最後にC.についてですが、これが結構私は問題かと。嘘である可能性が高い理由は、もし本当だったらサンチャゴは自分が殺される可能性が高いと自覚し、逃げますからね。兄弟が探していることを聞きつけるとかいう以前に、夕べ二人は大丈夫だったのか?と気にしますよね。何の事やら?と人に嘘をつくことはしても、実際殺されそうなのですから、体裁気にしている場合ではなく逃げますよね。ところが逃げていないので、それが潔白の証明になっているわけです。それでもアンヘラがためらいもせずに「彼が相手だ」とその後も言い続けること、庇っている相手を隠し通す点が謎です。最後は開き直って処女である小細工をしなかったのは女の潔さなのなら、開き直って本当の相手の名前を言っても良いでしょうに。よくわかりません。
で、後日談。アンヘラは結婚したくなかったけれど、家に追い返されたとき、バヤルドを愛してることに気づいた。そこで30年近く毎週手紙を書き続ける。そしてその手紙をバヤルドは一つも開封しない。送り返せばいいのに受け取る。受け取るから送られ続けているのはわかっていても受け取る。そいで再会する、と。この辺の流れの方がよっぽど私からすると「なんじゃそりゃ」なわけですが…。
事件が起きたことは不思議ですし、悲劇でしょうけれど、実際には日曜の深夜から月曜の午前中くらいにかけて起きた事件ですし、突発的には何が起きても、そういうこともあろうかなと私は思えます。が、長い年月をかけて起きた出来事、それが特に人間の意志の継続性に基づいているケースの方が私にはよっぽど不思議です。

2003年12月 2日

ゲームのルール

ゲームのルール■著者:ピエルルイジ・コッリーナ著,石川顕啓編,山口英雄訳
■書誌事項:NHK出版 2003.8.27 ISBN4-14-080812-8
■感想
この著者のプロフィールを作成しました。夏に刊行されていたのは知っていましたが、先日ユーロ2004プレイオフのノルウェー対スペイン戦を見て、やっぱりカッコいいなぁと思って、つい購入してしまいました。同じくユーロ2004の予選のとき、トルコ対イングランド戦でもめたベッカムとアルバイに「試合に出たければ今すぐ問題を解決するんだ。ふたりとも国を代表する愛される選手だ。こんなふるまいは君たちにはふさわしくない。この一件は見なかったことにしよう」ときつく言ってたしなめた、とはアルバイの言葉。本当だったら、やっぱりカッコいいなぁと、そのときも思いました。
彼はこの風貌で審判としては異常に目立ちます。これは脱毛症によるもので、24歳のときからこうだそうです。長い間「良い審判は目立たない審判だ」と言われて来ましたが、それに対して本書の中でも反対しているように、この人自身がすでにアンチテーゼなわけです。どんな形にせよ、審判というものに対してサッカーファンがもっているイメージを変えたのは間違いありません。
この本の中にはこの記事の中のエピソードも入っていますが、他にもワールドカップやチャンピオンズリーグのエピソードもあります。
サッカーの審判をやる人は物好きだと思っていましたが、ホントに物好きでした。本当の理由は単にサッカーへの情熱で、自分にはプロの選手としての能力はないが、たとえアマチュア・サッカーであっても、サッカーというスポーツに貢献できることが審判を続ける理由だと。イタリアには審判が25,000人いて、うちセリエAとBの審判は35人だそうです。いかに草の根レベルに広がっているのかがよくわかりました。
私は、本書を読んだ後も読む前も同じ考えですが、良い審判は決断力のある審判であり、間違いを潔く認めることができる審判だと思いますね。