Anna Seghersアンナ・ゼーガースの文学

アンナ・ゼーガース年譜

1900(明治33)年

11月19日、マインツの美術商で、ドームの所蔵美術品管理人でもあるイージドア・ライリングの一人娘、ネティ・ライリングとして生まれる。
6歳のとき私立学校に入学。1910年に女子校に変わる。
1917年~19年マインツの高等女学校で学ぶ。

1919(大正8)年 19歳

ハイデルベルク大学に入学。美術史、歴史、文献学、中国学を学ぶ。一時期ケルンに移り、東洋美術館の実習生として働きながら大学に通った後、再びハイデルベルクに戻る。
学生のサークルで戦争と革命について熱心な議論がかわされ、特にハンガリーから反革命の白色テロから逃れて亡命してきた革命家たちの姿に心ゆさぶられる。

1924(大正13)年 24歳

『レンブラントの作品におけるユダヤ人とユダヤ世界』という論文を提出。

「ジャル島の死者たち。」

最初の作品「〃―オランダの伝説から。語り手はアンチェ・ゼーガース」が『フランクフルト新聞』に掲載される。

1925(大正14)年 25歳

ハンガリーの経済学者ラズロ・ラドヴァーニと結婚。ラドヴァーニ(1900~1979)はヨハン・ローレンツ・シュミットの名でマルクス主義労働者学校の校長をするなどドイツ共産党の教育部門で活躍。この結婚からルートとペーターの二人の子供が生まれる。

1926(昭和1)年 26歳

「グルーベチュ」

1927(昭和2)年 27歳

ゼーガースのペンネームで「グルーペチュ」が『フランクフルト新聞』に掲載される。

1928(昭和3)年 28歳

「聖バルバラの漁民一揆」

アンナ・ゼーガースの名で上記作品刊行。クライスト賞受賞。
ドイツ共産党入党

1929(昭和4)年 29歳

「トタン小屋―断片」

『24人の新人作家集』に上記作品が掲載される。
プロレタリア・革命作家同盟員となる。

1930(昭和5)年 30歳

「アメリカ大使館の途上で」

上記作品刊行(「グルーペチュ」「フルショヴォの農民」「ツィーグラー家」収録)。
『ヤーレスヴェンデ』誌に「仲間」を掲載開始。
第二回プロレタリア・革命作家国際会議に参加。

1931(昭和6)年 31歳

「訴訟」を『リンクスクルヴェ』1月号に発表。

1932(昭和7)年 32歳

「仲間」「運転免許証」

「仲間」刊行
「運転免許証」を『リンクスクルヴェ』6月号に発表。
「私の仕事場からの報告」を『リンクスクルヴェ』9月号に発表。
「マリーは集会へ行く」を『新世界画報』1号に発表。

1933(昭和8)年 33歳

「首にかかった賞金」

1月末逮捕され、尋問される。ゼーガースの作品はナチにより禁書となる。警察の監視下にあったが、スイスに逃れる。次いでフランスに亡命、パリに住む。
「首にかかった賞金」がアムステルダムのクヴェリード社より刊行。
「ストップ・ウォッチ」を『ドイツ・プロレタリア作家』に発表。
「ホーエンシュタイン収容所での殺害、「第三帝国」からの報告」をペーター・コンラート名で『ドイツ中央新聞』(7月8、14日号)に発表。

1934(昭和9)年 34歳

「コロマン ヴァリシュの最後の道」「四角形」

オーストリア労働者の二月放棄に感動し、事件のあとをたどって旅行、また放棄指導者の裁判を傍聴。その最初の記録「コロマン・ヴァリシュの最後の道」を『ノイエ・ドイチェ・ブレッター』7号に発表。
「四角形」を『デア・ローテ・アウフバウ』9月号に発表。
「聖バルバラの漁民一揆」がモスクワ亡命中のビスカートアにより映画化。

1935(昭和10)年 35歳

「二月を通る道」

「二月を通る道」パリ、モスクワ、レニングラードで出版。
ベルギー旅行。ポリネージュ炭坑地を見てまわる。
「エルンスト・テールマン、彼は何のために戦ったか」(評論)発表。
文化擁護第一回国際作家会議(6月21~25日、パリ)で「祖国愛」と題して演説。

1936(昭和11)年 36歳

「コロマン ヴァリシュの最後の道」モスクワで出版。

1937(昭和12)年 37歳

「救出」

「救出」アムステルダムで出版。
放送劇「1431年ルー案におけるジャンヌ・ダルクの裁判」がアントワープ放送局の依頼で書かれ、『国際文学(ドイツ語版)』第5号に掲載される。
マドリッドにおける文化擁護第二回国際作家会議に出席。

1938(昭和13)年 38歳

「盗賊ヴォイノクのもっとも美しい伝説」「アルテミス伝説」

「盗賊ヴォイノクのもっとも美しい伝説」(1936)を『ダス・ヴォルト』6号に発表。
「アルテミス伝説」を『国際文学(ドイツ語版)』第9号に発表。

1939(昭和14)年 39歳

ルカーチとの間にかわされた往復書簡(1938~39)が『国際文学(ドイツ語版)』第5号に掲載される。
「十一番目の国への旅」を『ノイエ・ヴェルトビューネ』1月19、26、2月16日号に発表。
「第七の十字架」最初の章が『国際文学(ドイツ語版)』に連載される。

1940(昭和15)年 40歳

「第七の十字架」脱稿。
「トランジット」執筆開始。
パリの非占領地区に逃げようとするが失敗し、再びドイツ軍占領下のパリに戻り、子供とともに数ヶ月隠れ住む。まだ占領されていない南仏への脱出に成功する。夫が収容されているル・ヴェルネ収容所近くにのがれ、夫の釈放に努力する。マルセイユへ逃れる。

1941(昭和16)年 41歳

アメリカ作家同盟の援助でマルセイユから貨物船でメキシコに向かう。途中マルティニク島で収容され、サンドミンゴ、ニューヨーク港内のエリス島、キューバ、ヴェラ・クルースを経て、鉄道でメキシコ・シティに入る。
『自由ドイツ』を創刊。「ドイツとわれわれ」を創刊号に、「隠れ家」を11月号に発表。

1942(昭和17)年 42歳

「第七の十字架」

「第七の十字架」英語版がアメリカで出版され、世界的な評判を得る。ドイツ語版はメキシコで亡命者がはじめたエル・リブロ・リブルが出版。

1943(昭和18)年 43歳

6月24日自動車事故で頭に重傷を負う。一時生命の危機。この回復期に「死んだ少女たちの遠足」を執筆。
「トランジット」脱稿。
「ヨーロッパにおけるナチのテロ黒書」をエル・リブロ・リブルより出版。

1944(昭和19)年 44歳

「トランジット」

「トランジット」英語版がアメリカで出版。メキシコでスペイン語訳、仏語訳は1947年、ドイツ語版は1948年に刊行される。
「死んだ少女達の遠足」脱稿。
「第七の十字架」アメリカで映画化。

1946(昭和21)年 46歳

「死んだ少女たちの遠足」

「死んだ少女たちの遠足」ニューヨークで出版。

1949(昭和22)年 47歳

スウェーデン、フランスを通り、故郷のマインツの破壊された姿を見、西ドイツを横切って、ソビエト占領地区に入り、4月22日ベルリンに到着。
第一回ドイツ作家大会で「作家と精神の自由」と題して演説。
「未知の偉大な人々」(評論)

1947(昭和23)年 48歳

「死んだ少女たちの遠足」アウフバウ社より出版。
ドイツ作家代表団とともにソ連、ポーランドへ旅行。
ドイツ民主確信文化連盟、ソビエト文化研究協会などで「芸術の本質と作家の役割について」など一連の講演。

1949(昭和24)年 49歳

「ハイチの宴」「死者はいつまでも若い」

プラハの世界平和大会に準備委員として出席。

1950(昭和25)年 50歳

「路線」

第二回ドイツ作家大会で開会挨拶。
ドイツ作家同盟会長となる。

1951(昭和26)年 51歳

「クリザンタ」「子どもたち」

10月10日の中国解放記念に招かれ、中国訪問。「新生中国にて」
国民賞第一位受賞。レーニン平和賞受賞。

1952(昭和27)年 52歳

「男とかれの名」

夫のヨハン・ロレンツ・シュミット亡命先より帰国、フンボルト大学と科学アカデミーの政治経済分野で活動。
第三回ドイツ作家大会で挨拶、会長就任。「彼は母親にたずねなかった」「学生への呼びかけ」などの講演。

1953(昭和28)年 53歳

「蜂の巣」

「蜂の巣」(全2巻。中・短篇集)出版。
ベルリン暴動を扱ったルポルタージュ「ベルリンのある建築場で」発表。
1947年~53年の講演や小説をまとめた「世界の平和」出版。
「現実化」(評論)

1954(昭和29)年 54歳

「世界の平和」増補版出版。ビキニ水爆実験に抗議して書かれたルポルタージュ「ふたりの人間」を新たに収録。
「われわれの時代を考える」(評論)
第二回ソビエト作家大会に参加。

1956(昭和31)年 56歳

第四回ドイツ作家大会で主報告「国民の意識形成に課す文化の役割」。

1958(昭和33)年 58歳

「パンと塩」

1959(昭和34)年 59歳

「決断」

第三回ソビエト作家大会に参加。国民賞第一位受賞。

1960(昭和35)年 60歳

ドイツ芸術アカデミーが「アンナ・ゼーガースとその作品」を、アウフバウ社が「アンナ・ゼーガース―友人の手紙」を出版。
祖国功労勲章(金)受賞。

1961(昭和36)年 61歳

「絞首台にさす光」

ポーランド船でブラジルへ旅行。
第五回ドイツ作家大会(5月25~26日)で主報告。「文学における深さと広さ」。

1962(昭和37)年 62歳

「カリブ海の物語」

「カリブ海の物語」出版(「絞首台にさす光」「グァデループにおける奴隷制再導入について」「ハイチの宴」収録)

1963(昭和38)年 63歳

「蜂の巣」「トルストイについて、ドストエフスキーについて」

「蜂の巣」(全3巻。中・短篇集)出版。
西ドイツと西ベルリンでルフターハント社よりゼーガースの作品が初めて出版される。
二回目のブラジル旅行。

1965(昭和40)年 65歳

「弱者の力」

ベルリンとヴァイマルで開かれた国際作家会議で挨拶。
カール・マルクス勲章を受ける。

1966(昭和41)年 66歳

ドイツ作家同盟第一回年次会議で挨拶。「今日の作家の課題、懸案の問題」

1967(昭和42)年 67歳

「本当の青」

ソビエト作家第四回会議で挨拶。「十月の光」

1968(昭和43)年 68歳

「信頼」

「死者はいつまでも若い」DEFAにより映画化。

1969(昭和44)年 69歳

「地上的なものを信じる」(評論集)出版。
第六回ドイツ作家大会で挨拶。「われわれの共和国の現在と未来はわれわれの目標であった。今後もわれわれの目標である」
自由ドイツ労働組合の文学賞受賞。

1970(昭和45)年 70歳

評論集「芸術作品と現実」全三巻出版。
「読者への手紙」出版。

1971(昭和46)年 71歳

「渡航」

国民賞第一位受賞。

1972(昭和47)年 72歳

「アガーテ・シュヴァイゲルト」テレビ映画化。

1973(昭和48)年 73歳

「奇妙な出会い」

マインツより「マインツのアンナ・ゼーガース(マインツ小双書 全五巻)」出版。
第七回ドイツ作家大会(11月14~16日)で挨拶。「社会主義の観点が最も広い視野をひらく」

1975(昭和50)年 75歳

「石器時代」を『ジン・ウント・フォルム』(7,8号)に掲載。
アウフバウ社より全14巻の全集刊行開始(~1980年)。
「アンナ・ゼーガースについて。七十五歳記念の年鑑」(K.パット編)出版。

1977(昭和52)年 77歳

「石器時代・再会」

重病。
西ドイツで、ルフターハント社より10巻本、その他次々と出版される。

1978(昭和53)年 78歳

夫のヨハン・ローレンツ・シュミット没。
大発会ドイツ作家大会で会長をH.官途と交代、名誉会長となる。

1980(昭和55)年 80歳

「ハイチ島の三人の女」

1983(昭和58)年 83歳

6月1日没。
参考:「アンナ・ゼーガースの文学」三修社 1982/「世界文学全集94」講談社