チボの狂宴/バルガス=リョサ
ノーベル文学賞を受賞後に翻訳が刊行された作品で、もともと評判が高かったが、実際に読んでみると、圧倒されてしまった。リョサの他の作品と同様、複数の時間、複数の物語が平行して流れていくのだが、そのラインが最終的に混ぜ合わさり大きなうねりのようになってぐぐっと持ち上げられ、ポトンと落とされる感じと言えばいいだろうか。
ドミニカの独裁者・ラファエル・トルヒーリョ(1891~1961)の時代を描いた長編小説。トルヒーリョの最後の一日をトルヒーリョの方と暗殺者の方の2本建てで流れていく。さらに35年後の1996年のドミニカに帰国した女性・ウラニアの現在と過去の物語も語られ、大枠では3本の話が進んで行く。暗殺者の人々がそこに至るまでの経緯が一人ずつ丁寧に書かれ、一方でトルヒーリョも過去に遡りながら政権の幹部たちとの歴史が掘り起こされていく。暗殺が実行されて、2本が一致し、そこからまた暗殺後の政権へと話が移る。暗殺直前からウラニアの話はしばらく放っておかれる。暗殺者の逃亡と裏切り者のその後、そして大統領ホアキン・バゲラールの政権の舵取りと生き延びた暗殺者たちの話が終わると、ようやくウラニアに話が戻って、彼女の過去におきた出来事の全貌が語られて物語は終幕する。
読み進めるにつれ、人間の気高さと卑劣さが次々と襲いかかってくる。暗殺者たちの過去の卑屈さとそこから立ち上がろうとする気高さ。ウラニアの父や娘婿のロマン将軍らの吐き気を催すほどの卑劣さ。独裁者のもっとも恩恵を受けている者がもっとも彼を憎み、そして恐れている。ばれるとわかっていて、ばれたらどんな目に遭うかわかっていて、それでも感覚が麻痺したかのように一歩が踏み出せないロマン将軍の心理は理解できる。暗殺者を庇う人々の気高さと、暗殺者を執拗に追求する一族の愚劣さ。そんな中、大統領ホアキン・バゲラールの絶妙な政権運営とバランス感覚に強い感銘を受けた。
独裁政治が倒れた後の反動として、鬱屈したパワーが爆発して内戦に陥ることを懸念し、両サイドのパワーバランスを時間をかけてじわじわと調整するその手腕は見事だ。それまで長い間独裁者の傀儡だったのに、暗殺直後から権力を掌握し、力を発揮する彼の本当の狙いは何だったのか。我欲のない人物だからこそ今もっともふさわしい手は何かを見通すことが出来たのかもしれない。事実としては彼は結局クーデターにより失脚するのだが、国は内戦にはならず、その後再び大統領として復権することになる。
ウラニアが何故父親を手紙に返事を書くことすらせず、憎み続けていたのかは、かなり最初の方でわかる。娘が父親をそこまで憎むのは、父親に犯されたか、父親に売られたかのどちらかだ。では誰に売られたのか、どんなふうに売られたのか、それだけで最後まで引っ張るのはさすがとしか私には言葉がない。
30年以上もの長い間独裁政治を敷くことが出来たトルヒーリョは几帳面でかんしゃく持ちで、傲慢で自信家で残忍だ。「歴史上の人物」にそんな人間らしさがないと、自分には読み進めるのが困難だったのではないか。何しろ大著なので、物語にも登場人物にも力強さがなければ読み終わることが出来なかっただろう。
それにしても映画が見たい。どこかでDVDにしてくれないものだろうか。
著者:マリオ・バルガス=リョサ著,八重樫克彦,八重樫由貴子訳
書誌事項:作品社 2011.1.30 538p ISBN978-4-86182-311
原題:Mario Vargas llosa, La fiesta del Chivo, 2000